私の本の読み方
今、静かに「読書法」なる
メソッドが注目されているような気がします。
それだけ書籍は読みたいけれど
読み続けられないなどの
悩みが多いのでしょうか?
インターネットが普及して
手軽に情報を手にしたり
自分の思いを文章化したり
(noteも同じですね)
一般の人にも
文章はかなり門扉を広げてきました。
しかし、やはり系統だって
知識を仕入れるのには
やはり本を読む「読書」が不可欠でしょう。
自分の中に整理して知識を貯めていくには
スマホの情報のようではなく
能動的に本に向かっていくのが必要です。
その本の読み方にも
今盛んに唱えられているのが
「アウトプット」です。
中には本にアンダーラインを引いたり
書き込みをしたり
いろんなメソッドが顕在化しています。
これは私の個人的な意見です。
本を綺麗にして読むことは
とても大切です。
それは元来、書籍というものは
手に入りにくかったものだったからです。
今のようにお金さえあれば何冊も買える。
そして本は汚してよめ。
アンダーライン、書き込みは当たり前。
その上、読んだ内容はSNSなどに
感想文やアウトプットをしろなど。
これでは、本好きな私も
逆に本に対して
読書の敷居が高くなってしまう
のは当たり前だと考えます。
読書とは著者(書いた人)との対話である。
とおっしゃているのは教育学者の齋藤孝先生です。
齋藤先生も三色ボールペンや
読書感想文なども提唱なされています。
しかし、私は先生のメソッドのいいとこ
取りをしています。
noteなどでも
いい文章とは
読み手と記事の「共感」にあると
考えています。
本も然りです。
読書して共感するために
なぜアンダーラインが必要か?
書き込みが必要なのか?
なぜわざわざアウトプットの必要性があるのか?
アウトプットは
教えたい熱が自分にあれば
良いと思います。
ただでさえ読書離れが進んでいるのに
読書自体のハードルを上げることは
本末転倒に私は考えます。
では、何のために本(書籍)を読むのか?
その前に古典はオワコンではないです。
私はそう考えます。
それは前述した通り、人が書いた
文章、本を読むことは
共感、もしくは「私淑」するためです。
「私淑」(ししゅく)とはその本の著者の思いを学ぶことです。
これは齋藤先生も提唱しています。
本を読んで
共感や「私淑」をして
孤立感や思いを陶冶(とうや)していくことが
私の読書観です。
よく、初めに読む本に
ライトノベルなどを勧める先生も
いらしゃいます。
私ならば逆です。好きならカントの「純粋理性批判」などでも良いと思います。
わけがわからなくても何となく読んでいて感じが良いのがベターです。
それが本を読む。
それが本に触れることです。
昔は小さい子供でも
「論語」など意味がわからずに
素読していたものです。
簡単にいうならば
自分の感覚にフィットするものならば
何でもいいのです。
それが「乱読」だと思います。
読書にまで「効率」を考えるのは
私はいかがなものかと考えます。
今回は私の「読書観」を
述べてみました。
賛否両論ありますが
今の所、私の考えはこんな感じです。
最後まで読んでくださり
ありがとうございます。
それでは また
おわり
mayoc_mayocさん素敵なイラスト
ありがとうございます。
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