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子どもに教えられたこと。「みんな」に合わせるのが当たり前ってほんと?

⚠️今日の文には結論も教訓もありません。つぶやきです。

コロナ禍で「出勤して当たり前」の社会に疑問を投じる機会を得た。

もちろん、出勤が続く人、出勤に戻る人、リモートのままな人、いろいろいる。

今私はリモートワークに慣れ過ぎて、リモートでもできることを「出社」してやれと言われたら「なぜ?」と疑問を抱くと思う。

小学校に入って授業に集中してなかったり荷物が整理できないことが明るみになった息子は、発達検査を受けたり、私はお医者さんにこんなお薬の選択肢がありますよ、と説明を受けたりする。

授業中は終始座っている。
指示通りのことを時間内にする。

もちろん当たり前のことだし、みんなやってる。

そして、できないなら本人も苦しいでしょうし薬で多少解決できますよ、って…。当たり前な人にそうじゃない人が合わせることが前提の考え方な点にほんの少しの棘というか、飲みこみきれない何かを感じる。

もちろん、薬の良し悪しの話ではない。

医学的根拠に基づき、医学的なアプローチで問題を解決する、目が悪い人がメガネをかけるのと同じだよと考えたらいい。効果効能と副作用を天秤にかけて、薬の是非は家庭や子どもの状況から医師に相談して正解を探せばいい。

私の違和感は、他と違うから困る、他と違うからだめ…と「学校だから仕方ない」「会社だから仕方ない」で常に人間を容れ物に合わせ続けるのでいいのかな?という点。

それって「戦争で死ぬのは栄誉なこと」と考えて愛する人を戦地に送り出すのと何が違うの?と極端に考えてしまう。

まぁ、なんでも許容できる容れ物も世の中にはあるにはあり、それを探し続けるのは大変よという事情もあるから現実はそう甘くないけど。

とは言え、すでに、学校だって昔に比べ「行かない」という選択肢に疑問を抱く人は減ってはきているのでは…。

職場もそうではないだろうか。
出社一択の会社も減り。
社章がない会社もあり。

家庭でもそうではないだろうか。
年賀状も出さない人もいるし、結婚式や葬式に親族を呼ばない人もいるし。

街に出れば、レストランでは注文は自分でするし、料理はロボットが運んでくる様になった。そのうちバスの運転手さんの代わりに、ロボット搭載のバスが待ちの中を走るかも。

保育園の連絡帳がオンラインやアプリになって、「スマホを持ってない人」の存在はなくなっていくのではないだろうか。

白髪は染める、のではなく、そのまま残す人も増えていると感じる(オシャレな感じに、何らかの技術で黒じゃない色で染めているだけかもしれないけど)。

知らない間に当たり前は変わっていく。

これから、というかこれまでもそうだと思うけど「それが当たり前」と思っていたことは当たり前ではなくなっていく。

それを前提に、あまり自分を縛るものに囚われ過ぎない様にしたいと思い立つ。

そして、でもやっぱりまだまだ「当たり前」に合わせられる方がよい世の中でうまくやることを子どもには覚えさせないとと憂鬱に。私がそれが苦手だったから。

息子を思うとき、胸の中の全てを掻き出させる様な熱い詩に出会ったのでここに置いておく。

きみがすき

小さいままのきみがすき
きょうわらってたきみがすき
そっぽむいてたきみがすき

小泉周二詩集
現代児童文学詩人文庫9

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