年越しに思うこと。2022年ありがとうございました。
今年もまた終わろうとしてる。
早いものだ。
そして年々早くなっていると思う。
今年の大晦日の景色と心情をここに書き留めておきたいと思う。
年越しの子どもたちについて発見したこと
上の子は成長しておじさんおばさんに遊んでもらえるようになった。キャッチボール、トランプ、オセロ、ルービックキューブ、DSのゲームなど。ありがたい。
下の子も、バイバイ、パチパチ、はーいなど芸をいくつか仕込んだので遊んでもらえるようになった。おしゃべりを覚えたらもっと構ってもらえるかな。
下の子は一歳。新しい場所に場所見知りをする。少し遊ぶと慣れてきて階段をよじ登り、段差ではゆっくり昇り降りし、終いには汗だくで動き回る。刺激がそのまま成長の助力になっているようだ。
年越しの夫家族について思うこと
たまたま今年はそうかもしれないけど義理母は足腰がつらそう。娘さんや息子さんご家族が近くにいらしてよかった。やっぱり高齢になる親世代との間で今後どんなことが起こるのか知らなければと思う。
夫はお義母さんや妹さんたちに、働け!ダラダラするな!と言われている。妹さんたちの配偶者は気が利いて常に家事や子どもの相手をしている。よかった。動かぬ夫にイライラするのは私の性格が悪いからではないようだ!しかも、これ、もう直らないな。だって、お義母さんはお義父さんに、何もしないと怒っている。妹さんたちは両親から学んで働き者の配偶者を選んだのだろうか。
自分の家族について
両親は70歳あたり。存命だがコロナの少し前から会えていない。もうすぐ100歳に届きそうな祖母の在宅での介護のためだ。
コロナが始まり、ショートステイの施設では、感染者の多い地域の人と接触した家族の同居家族は受け入れができない。つまり、私と接触したら両親は祖母をショートステイ先に送り出せないらしい。
だから一歳の息子はじいじばあばに会ったことがない。私の両親が孫に会えるときとは、コロナが関係ない世界になったときか、でなければ私たち家族が同じ地域に移住したとき、不謹慎だが祖母が亡くなった時、ということになる。
これについては悶々とすることが多い。
孫に両親の顔を見せることができないのは悲しいし、両親(祖母は父方なので、父親ということかもしれない)は私より祖母を選ぶんだなあ、という曲がっているかもしれない解釈を拭い去れないでいる。
もちろん、祖母には長生きしてほしい。両親にとって介護が納得いくものであってほしい。
けれど上の子の七五三も、下の子の出産も、上の子の小学校入学も、もしかして下の子の七五三も、私の親は「不参加」になるのかな…、と暗澹たる気持ちになる。
私ったら、せっかくあなたたちの望み通り、結婚もしたし孫もできたのに見てくれないの?!とまるで小さな子どものように臍を曲げて腹を立ててるのかもしれない。もうやだ、大人になりたい。
そんな日常の悲喜こもごもを抱えて。
毎日子どもたちへの愛が止まらなくてどこかに放出したくてnoteを始めたつもりだった。けど年の最後に書いたのはひょっこり出てきた自分の中の小さな自分のこと、自分の親のこと。耳を澄まさないと聞こえない声があるんだなと思う。それだけ、子どもたちに支えられているのかもしれない。
noteでたくさんの誰かの声を聞くのが好きだ。
あなたの声も私の声も。
街の灯りのようにほんのり夜空を照らしている。
noteの扉を開けてよかった。
片隅にいさせてください。
2022年、ありがとうございました。
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