ある失恋の話 ~『耳をすませば』夢と恋について

突然ですが、私は昨年六月から付き合っていた一つ年下の男性に昨年のクリスマスデートの際、別れを告げられました。理由は「疲れたから」。さもありなん。彼は慢性的に課題に追われていて、発表が近くなると三徹するくらいに課題に全神経を集中させる。私はその度、彼の中で自分の居場所がなくなっているようで不安になり、寂しさから「私の方を見て」などとメンタルがヘラっているようなLINEをしてしまった。これには彼が何度も約束の電話を寝ブッチしたり、次に会う約束をする時に「今は頭が働かない」とはぐらかしたりしたなど彼にも原因は一応あったりするのだが、ただ彼を本当に想うのであれば会えない時はひたすら「今は大変な時期だからしょうがないよね」、いざ会えた時には「会えてうれしい」と良い女でいることを徹底するべきだったのだろう。その「好い女」を完璧に演じることのできる女がこの世界にどれくらいいるのかは疑問であるけども。私には無理だった。私には自分の感情を押し殺すことができなかった。彼は自分の辛さを分かって欲しかった。私もまた分かって欲しかった。私は彼と一緒にいないことが何よりも辛いことだと思っていたから、どんなに辛いことがあっても頑張ろうとある意味腹をくくっていたけれど、彼はそうではなかった。頑張ることに疲れてしまったらしい。しょうがない。しょうがない。しょうがない。離れて約二週間、彼は彼なりに私のことをちゃんと愛してくれていたことは分かっている。だから辛い。友達や親からは、「別れて正解だ」と何回も言われているけれど、彼の不器用なりの愛し方が私にはどうしようもなく愛おしく思えてならない。彼は私と別れて後悔しているだろうか。別れて課題に集中することが出来て良かったと思っているのだろうか。私は彼と一からやり直したいと未練がましく思っている。無理でもいい。ただ一言、謝りたい。君の辛さを受け入れることができなくて申し訳なかった、と。そして願わくば今回は受け入れたい。でも何もかもに疲れてしまった彼にとって、私のこの願いこそ一番の迷惑で、今の私に出来る唯一のことはただ自分と向き合い、別れを受け入れ、次に進むことなのだ。分かってはいるけれども、それが出来ない人間もいて、その出来ない人間に寄り添うのは結局誰かの言葉なのだ。

タイトルにある『耳をすませば』、いつ出てくるんだと思った方、お待たせした。ここで登場だ。ちなみにこの『耳をすませば』は昨年公開された実写版のことだ。スタジオジブリの『耳をすませば』を知らない状況で見たら、まあ楽しめる映画だったと言えるのではないだろうか。
雫は、何のために小説を書いたのか?何を思って言葉を紡いだのか?
その解釈が、アニメ版と実写版の物語としての評価を大きく分けている。
実写版では、雫の物語を書く動機に、いつも想い人である聖司が関わっている。聖司に自分でも小説を書いてみたらどうかと提案されて雫は物語を書き始めたし、その後も書き続けているのは夢を追う聖司のため。
でも、物語を書く理由なんて本当にあるのだろうか。
アニメ版を思い出してほしい。
何故雫は物語を書いたのか?
雫にはあの時それが一番だったから。
友人の失恋、ただの友人からの告白、初めての恋、受験、将来のこと。
初めての恋のこと。
環境は雫に大人になることを急いた。
まさしく思春期、まさしく青春。
感情の渦が雫の頭を常にかき回しただろう。
どうしようもない思い、あふれ出る感情をなんとかして外に放出したかった。
それには小説が一番だった。
ただそれだけの話。
雫がピアノ弾きであればピアノで良かったのだろうし、ただ自分というものに向き合うために雫には小説がよかっただけの話なのだ。
雫の物語の衝動は一過性にすぎないものかもしれない。将来、雫が筆を折ることもあり得るだろう。それでいいのだ。
きらめくような青春の日々に、彼女からあふれ出た言葉は何よりも貴重なものだろう。
聖司という恋のために小説家という夢を追ったのではない。
ただ自分自身のために、雫は小説を書いたのだ。


私の失恋。私だけの失恋。大好きな人、大好きだった人。想いは今でもあふれ出ている。彼に成長した私を見せるために私は短歌を詠むのではない。ただ私のために、私だけのために短歌を詠もう。私は彼ともう一度触れ合いたい。言葉を交わしたい。もう一度愛したい。私はそんな自分に寄り添うために短歌を詠もう。



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