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私の身体はわたしのもの

1.はじめに

 今回は、犬飼さんのnote記事「性行為を断ったら整形を勧められた挙句フラれた話」を読んで、自分なりに数日間、考えたことを書く。

2.あなたが幸せになっていい

 犬飼さんの記事は、自分の経験をさらして、絶対に忘れてはいけないことを伝えてくれる。それは、犬飼さんが文章の中で「自分のことも大切にしなくては」「もう少し自分を大切にしよう」と書かれているところだ。
 自分のことを大切にする。そこはすべての人間関係の始まりであり、目的である。これは自己愛やエゴイズムとは違う。
 他人に尽くすあまり、自分をないがしろにしてしまう場面は、仕事や恋愛において、よく見受けられる。行き詰まった結果、様々な人から相談を受けることが私は多くあった。そんなとき、私は言う。
 「もう人(恋人、パートナー、家族、職場、組織)のためには十分頑張ったよ。これからはあなたが幸せになっていいんだし、なるべきだと思う」と。
 たくさん話しを聞いたうえで、それだけ言う。繰り返し言う。というか、期せずしてそれだけ言っている。
 「自分を大切にする」という決断は、ときに人生を大きく変える。過去への決別をもたらすもある。しかし、約束されているのは、険しいながらも正当な人生だ。
 いろいろな状況の中で「自分さえ我慢したら」という無言の圧力はまだまだ強力だ。「自分を大切にする」というシンプルなことをを貫くのは言葉ほど簡単ではない。伴走者がいるにこしたことはない。 

3.私の身体はわたしのもの

 大学2年、19歳のとき、フェミニズムの第一人者である上野千鶴子さんのゼミを半年受けた。たしか毎週2冊の文献を読み、議論した。上野さんのコメントは、発言者へのフォローは少なく、とどめを刺すものが多かったように思う。それは、<おんな>が受けてきた苦悩、葛藤、暴力の積み重ねが生み出した言葉だった。
 当初はたしか200人ほどの参加者がいた。異常な参加人数だ。上野千鶴子人気恐るべしで、学外の参加者が多かった。読んでくるべき文献の量にへこたれた人もいただろうが、多くは議論の苛烈さ、特に自己批判をせざるを得ないしんどさに耐えかねて、回を経るごとに人数は減った。最後まで残ったのは20人ほどだったと思う。特に男性は私ともう一人だけだった。
 理系だった私は、上野ゼミの後に、数式が羅列する通常の授業を受け、ホットした気持ちを感じた。と同時に、どこか手応えのない物足りなさを感じたことは、今も忘れられない。
 上野ゼミで、繰り返し強調された点が3つある。
 一つ目は、<おんな><おとこ>といっても、社会的構築物にすぎないということだ。今では当たり前になったジェンダーの視点である。標語的に「Not by nature, but by nurture」と言われていた。
 二つ目は、女性解放はローカルではなく、グローバルなものだ、ということだ。別の国の<おんな>の犠牲のうえに、自国の<おんな>が幸福を享受するのは間違っている、と。
 三つ目は、私の身体はわたしのもの、ということだ。身体は自分そのものだし、人生そのものだ。自己決定権を我が手中に取り戻す。後年、上野さんが取り組んだ、ケアの問題や障害者の当事者運動なども、この視点のもとにある。
 特に三つ目。女性の身体が、どれほど男のために消費、手段化されてきたか。もちろん時代を経て、男の身体も消費されつつあるが、量も質もいまだ桁違いだ。異性愛男性向けの有料アダルトビデオのストリーミングサイトでは、見たいビデオを検索するために、「嗜癖」がかなり細かく設定できるという。性行為は細分化、記号化されて消費されている。快楽や美、嗜好は誰かによってつくられ、強化されているのだ。
 今から20年ほど前、女性の友達が「20代の化粧は男のため。30代の化粧は自分のため」と話してくれ、目から鱗だった。まだ、男性優位主義の残滓があるが、そういう物の言い方が世の賛意を得る時代の兆しだった。同時に「据え膳食わぬは男の恥」「(性行為を通して)男になる」などの言葉が徐々になりを潜めていったのもこの時代だったように思う。
 蛇足ながら、化粧は成人女性にマストとされる。”すっぴんで外に出るなんて犯罪だ”というつぶやきが妻から発せられ、おののいたことがある。それに引き換え、男性は、「化粧しない」がデフォルトだ。しかし、私がジャニーズグループのSnow Manのファンになって気付いたように、男性の外見美を巡る感覚も変わりつつあるのかもしれない。

4.再び、私の身体はわたしのもの

 ハラスメントの考え方が社会に浸透し、大袈裟に聞こえるかもしれないが、「人間の尊厳」=人の心の柔らかい、繊細な部分を尊重する、という社会的合意は着実に進んでいる。
 とはいうものの、犬飼さんの体験は、今からほんの三年前の話しだ。プライベートな空間では、まだまだ暴力がまかり通っていることを忘れてはならない。
 犬飼さんの記事で、もう一つ大事な箇所がある。「恋愛感情から性欲になる理屈がどうにもわからず」という部分だ。前の部分で「ここ最近自分がもしかして「アセクシャルではないか」と思うきっかけがあり、それが確信に変わっています。」とも記されており、犬飼さんのような人が一定数、社会に存在していることが伝わってほしい。カミングアウトを当たり前のことと思ってはいけない。ここに至るまで、想像を絶する葛藤、軋轢があったのだ。口にした途端、失う物の多さにおののきつつ、それでもあなただけは、また、この場ならば、と信頼、安心して伝えてくれていることを理解したい。
 再び、強調する。私の身体はわたしのものである。性的指向(どのような人を恋愛の対象とするか)と性自認(自分の性は何か)はその中でも最もセンシティブなものだ。興味本位で聞き出すものではない。他人がどうのこうのするものではない。否定できないもの。それがセクシュアリティだ。当事者グループの方々と20年以上、仲良くさせてもらった。それが私の今の結論だ。
 受け入れる側に突然、立たされた人は、戸惑いが大きいかもしれない。その人が重要な存在であれば、否定するような言葉も出てしまうかもしれない。しかし、考え続けてほしい。これは自分の器を大きくするチャンスだと。

5.おわりに

 犬飼さんは「何もわからない20歳に知恵をくだされば幸いです。」と結ばれている。その謙虚さに胸を打たれる。なぜならば、犬飼さんはすでに「答え」にたどり着いているからだ。
 いや、この議論をもっと続ける必要があるという気持ちの表れかもしれない。ならば、このnoteを書かせてくれた犬飼さんに私は感謝しかない。
 犬飼さんは、妹さんとYに対する「好」「悪」の感情をきちんと言葉にしている。特に「悪」の理由が具体的に列挙されている。人間としての感性が健全な証拠だ。自分と向き合っている人の言葉だ。社会で闘える人の言葉だ。社会=他人の物差しを気にする必要なない。自分という物差しがすでにしっかりとあるのだから。
 ささやかながら、応援しています。「そのままで十分素敵です」。

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