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無理やり、オックスフォード大学の学生になった話 その3

学問にも、高等教育にも縁がなく日本で育った私がイギリスに渡り、オックスフォード大学の学生になるまでと、なってからの逸話自伝エッセイ。
経済的、精神的な苦労もなく甘やかされてワガママに生きてきた日本女性の半世記


7週間の欧州旅行とサンフランシスコストップオーバー

シュタイナー教育に詳しい芸術工房の先生や友人たちがスイスのゲーテアヌムやフランス、アルザスのウンターリンデン美術館など、初めての旅行ではいかないような博物館などを紹介してくれ、ドイツ、スイス、フランス、イギリス、アイルランドにユーレイルパスと電話帳にみたいな時刻表を駆使して旅した。当時飛行機はユナイテッド航空がなぜか格安でアメリカ経由で行くことができたので帰路サンフランシスコに数日ストップオーバーすることにした。

スマホや、ネットもない時代である。「地球の歩き方」が頼りだった。ユーロ貨幣発行以前だったから、各国で違う紙幣を用意しなければならなかったし、アメックスのトラべラーズチェックを数日ごとに両替しながらの旅だった。

日本で7週間の旅に出る、というと「そんなに長く?」と驚かれたがその旅では自国をでで8か月とか2年旅しているというオーストラリア人やカナダ人に出会った。

Goetheanum, Dornach, Switzerland, photo by Wladyslaw

ドイツやフランスには素敵な場所がたくさんあり、旅人として訪れるのは良かったが、住んで馴染めない気がした。ドイツ人は親切ではあるが個人的に親しくなれない雰囲気があり、フランス人はあからさま親しくなれない雰囲気があった。言語も英語より習得は難しいと感じた。フランス人の意地悪な扱いを受けた後に向かったアイルランドは首都のダブリンもパリから比べたら田舎で人々はフレンドリーだった。郊外の気の遠くなる程長く続く石積みの柵は人間業とは思えないほど自然に溶け込んでいて神秘的だった。でも建物の貧弱さ、普通の人々の身なりからも貧しい国だというのが伺えた。日本のように島国の同一民族で構成されており、そこでも私はよそ者であり、素朴で可愛い国だけれど、ここも私の居場所になるとは思えなかった。

アイルランドの街では、よくクラダーの指輪を売っている店や、つけている人をよく見かけた。王冠のついたハートを両手が抱えているというデザインの指輪なのだけれど、よくみるとそれぞれに微妙にデザインが違う。銀や金や色のある宝石のついたもの、値段も手頃なものから婚約用のダイヤのついた高価なものまで色々あった。アイルランドの思い出に一つ買ってみようかと思ったが、そうだ、いつか人生の伴侶を見つけたら彼と一緒にまた訪れて、彼に買ってもらおうと決心してその時は買わずに、「またくるからね」とダブリンを後にし、長距離バスでロンドンに向かった。

ロンドンに着くと博物館に片っ端から行き、その後ブライトンにも数日滞在した。英語はわかるし、どの建物も剛健な煉瓦造りで、小さな個人商店がたくさんあり、なぜかここには真っ当な暮らしがあると思った。そしていろんな人種の人がいた。明らかに旅行者でないアジア人、お店やホテルで働く中東人やスーツを着た黒人ビジネスマン。むしろ白人のアメリカ人の方がツーリスト丸出しだった。地下鉄の中で話しかけてきたインド系のおじさんも明らかに住民で、リバプールストリートのマーケットに行くといいよ、などと教えてくれた。ポピーのバッジをつけている人たちが車内にたくさんいたので、あれをなぜみんなつけているのかと聞くと、時は11月で、第一次世界大戦を回顧する日Rememberance Dayのシンボルだから、と教えてくれた。

その後ある商店街の靴屋の店先にドクターマーチンの靴を見つけ、とってもイギリス的なその靴を購入しようと、店の主人にこれが欲しいとお願いすると、サイズを聞かれた。イギリスの靴のサイズを知らなかったので、とまどっていると、今履いている靴を脱いでみろという。私が靴を脱ぐと、靴下を履いた私の足を見て、「5だ。」と即答。そのサイズ5の靴を持ってきてくれ、履いてみるとピッタリだった。

イギリスは、妙に居心地が良かった。ヴィクトリア時代からメンテナンスをくり返いながらもあまり変わってないであろう煉瓦の壁を見ると素朴で寡黙な頑固親父を思わせた。古くなったら取り壊して新しいものを建てるといった日本とは全く違うコンセプトである。自然史博物館のお手洗いの琺瑯の洗面器は磨かれすぎて下地の金属が露出していたが、清潔感のみならず大事にされているということを感じた。

そしてあるストレンジャーとの小さなやりとりがイギリス移住への決心を決定的にした。ロンドン滞在も終わりに近いたある日、ヴィクトリア駅の近くで会社員風の方に道を聞いた。私はバックパックを背負ってみるからに旅行者であったがその人には「I don’t know」と言われた。それも「知るかよ」的なあまり親切でない感じの言い方だったのだがなぜかそれが清々しく感じた。旅行者だろうが、住人だろうが、皆同じ。日本だったら、たとえばドイツでもそうだったが外国人には親切だが、お客さん扱いを受けるのでそれがさらに外部者であることを感じさせられる。あなたはよそ者だから親切にしてあげますよ。日本は特にそうかもしれない。お客様にはおもてなしの心を持って接し、ウチの者には厳しく接する。イギリスにはよそ者でも住人でも親切な人は親切に接する。親切でない人はよそ者であろうがなかろうか、思うように振る舞う。あなたも、あの人も、私も同じ。そんなあっけなさが非常に心地よく、ここなら住めると思った。イギリス滞在最後の日、私は必ず戻ってくるからと、心に誓った。

同行していた友人とはそこで別れ、帰国の前サンフランシスコにストップオーバーで数日滞在した。サンフランシスコへ向かう機内で隣に座ったドイツ人の同年代の女性とそれまで訪れたヨーロッパの旅のことなど、お互いの普段の仕事や生活のこと、イギリスに住む夢ができたことなどをずーっと話していた。夜遅く空港に着くと、車で迎えにきていた彼女のボーイフレンドが私まで市内のホテルに送っていってくれた。

サンフランシスコではアーチストインレジデンスで滞在していた知人を訪れたり、貸し自転車を借りて街中を走ったりした。ホテルの部屋はヨーロッパの同価格の部屋にくらべて大きいし、快適だった。朝食のためにダイナーへいくと、パンケーキやら、ワッフルやらがボリュームタップリで美味しかった。

ホームレスもたくさん見かけたが、ヨーロッパのホームレスとなんか違う。堂々としていて、働き盛りの年代の筋肉隆々とした男性たち、筋金入りのプロフェッショナルという感じ。ヨーロッパのホームレスはそれに比べたらアマチュアというか、もっと哀愁を帯びていた。

12月だったがサンフランシスコの光は眩かった。ヨーロッパの光と違って、透明度がクリアだったが、そのクリアさが自然光でさえ何故か人工的に消毒液で拭い取ったようなわざとらしさがあった。ヨーロッパの光はどんよりとしてクリアではないんだけれど、ミネラルを含んでいるというか、空気が滋養深くて、呼吸をすれば何か体にいいものが入ってくるような違いがある気がした。

アメリカは病んでいる。サンフランシスコには行きそびれた美術館などもあったし、いつかまた来たいと思わせるような魅力はあったが、ここにも住めないと思った。

いつになったらオックスフォードの学生になった話になるんだと思っている方、それはこの時点から31年後のことです。
続く


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