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学生最後の誕生日に、まとわりつく幸せと恐怖

満月はぎりぎりで逃したものの、まだ餅をつくウサギが見えそうなくらい明るい。暖冬とはいえコートなしでは凍えるような寒さに身を震わせながら、マフラーの温もりに安堵している。吐く息が白く高く舞うほどに、先月に完全に辞めたタバコを恋しく思う。そんなよき日に、22歳になった。
 
 恋人が予約してくれた旅館に泊まり、順序も作法もわからぬ夕食を終え、ゆっくりと風呂に入る。そうして人の温もりを感じながら寝る。そんななんてことのない幸せが募るほど、僕は不安で仕方がなくなってくる。

 22年生きてきて、たくさんのものをもらった。たくさんの人と関わり、繋がった。ここ1年は実家から行動してきたこともあってより一層それを重く感じることができた。忙しい毎日への満足感。社会に出る時に助けられるであろうたくさんのお手本。助けてくれる家族と友人という多種多様な繋がり。これ以上ないと言って良いほど恵まれた環境だと自負している。いろんな人に助けられ、教えられ、つないでもらった。自分で始めた活動を応援してくれる人、協力を申し出てくれる人、そして一緒にやろうと言ってくれる人。この街でならなんでもできる。なんだってやれる。こんなふうに思えるのはなんて幸せなんだろう、してもらってばかりで申し訳なくなるくらいだ。

 だからこそ、不安に思う。幸せの絶頂だからこそ、恐怖を感じている。出会ってしまった。繋がってしまった。満たされてしまった。日々幸せのピークを更新していく最中、恐怖と不安が加速度的に増しているのがわかる。この不安の正体は、喪失からくるものであることも僕は知っている。

 「何かを得るためには、何かを失わなければならない」

 この言葉は僕が中学生の時に読み、いまだに何度も読み返しているほど僕の人生哲学の基盤になっている本。川村元気の著書「世界から猫が消えたから」の中で最も印象的かつ重要な言葉だ。その意味は悲劇的とも取れるかもしれないが、そう限った話でもなく、「何かを得るときにその対立概念を失っていることに気がついていない」ことを示した文である。例を挙げると、人は「お金」を得るとき、「お金がない状態」を失う。もっと簡単にすると、「ハンバーガー」を得るときに人は「空腹に対する不安」を失うことになる。気づいていないだけで、僕たちは何かを失い続けている。22年という歳月を得るために僕は、非科学的なものの存在に対する期待も、今日を楽しく生きるためだけの思考法も失ってしまったのかもしれない

 
   本当におすすめ。僕の死生観のベースはこの本に書いてあることが大きな割合を占めている。

 改めて、僕はたくさんのものを得た。それはそれは想像もつかなかった、一生に一度あるかもわからない生涯を共にしたい友人や恋人まで巡りあってしまった。これ以上何を得られるのだろうか。僕は、僕の人生にもう満足してしまっている。生きる目的は失わないことになってしまった。何かに挑戦したいという気持ちも、人間関係をリセットして新たな世界に飛び込んでいくためのバイタリティも失ってしまった。大切な人たちを得てしまった僕は、脈絡もなく変わっていく突拍子ない人生を失ってしまった。

 幸せな悩みだと言われるかもしれない。僕もそう思う。大切な人がいること以上に幸せなことなんてないと自覚もしているし、当然感謝もしている。ただし、確かに存在する恐怖も次第に大きくなる。近くにいてくれる人に対しての愛が大きくなればなるほど、それを失う恐怖も大きくなる。だから愛してないふりをして、傷つけたり迷惑をかけてみたりする。それでもいいよって一緒にいてくれる人たちの存在によって、もっと深い愛と恐怖が植え付けられる。その繰り返しで今日も息をしている。完全にメンヘラだ。

 あまり節目を意識して生活しないようにしているが、ふと考えてしまった。この先生きていたらもっと愛してしまってもっと怖くなる。その先で誰かを失うなんてことになればきっと僕は耐えきれないだろう。ならばいっそ誰も大切にできない人になりたかった。誰にも愛してもらえない人でありたかった。こんな自分を愛してくれてありがとう。そうやってまた一日、一年生きていくのだろう。心が弱い自分の、子供じみた堂々巡りを知っていてなお一緒にいてくれる人たちへ。君たちはこれを読んだりはしないのだろうけれど、いつもありがとう。おかげでまだ生きてます。

是非読んでみてほしい。

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