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小説 お酒で世界が変わるなら #1

「ばかお前、酒飲んだ時に出た言葉が本音だろうよ」
 ぼやけた視界の中聞こえた、加賀さんの声。たぶん、顔笑ってる。

 その日、炭火焼きで有名らしい焼き鳥屋の店内は満員。炭から立ち上る煙と他のテーブルの副流煙が充満していて、どこもうっすら白い。とても居心地いい空間とはいえないけど、みんな好きに身を寄せ合ってる。きっとここに集まる人たちの多くは現実に疲れていて、お風呂に入って早く寝ればいいのに、それだけじゃ休まらない心を見ないようにするために、こうして有限な時間を潰している。寂しい人たち。満たされていくようで、何も変わらないんだよ、ここにいては。あたしは氷で薄くなった桃酎ハイをすする。味気ねぇな。これはもうあたしの人生そのものだなぁと思いながら惰性ですする。一口目は甘くて炭酸がきつくてスカッとしてたのに、もう人工的な香りのする水になってる。でも新しい酎ハイを頼むのには躊躇する。もったいない、500円もするのだから。ずるる、とまたすする。みんなもそうであってはしい。せめてこの空間にいる人数だけでも、あたしと同じ気持ちであれ。やってらんねぇよって、ケチって不味くなった酒をみんなで飲もう。食べかけの料理が置かれたテーブルに、顔の右側をべったりつける。何度目かわからない乾杯の音頭をとるおじさんら、周波数レベルの奇声を上げる女子たち、「っしゃいませ」「あざっした」「お待たせっした」だけしか言わない店員、炭の爆ぜる音、ぶつかる食器の音、半耳分遠ざかる。アルコールはすごく便利だ。あたしの酔い方はいつも手がかかると周りに嫌がられるけど、楽しいからやめられない。酔いがまわるとどんなにつまらない冗談でも、割った割り箸の形でも、あの夜の失態すらも笑えてくる。今夜のお風呂も、明日の仕事も、田舎の親も、遠い国の戦争も、人知れず傷ついたこともどうでもいい。あらゆる出来事を煙に巻くことができる。また誰かが吐いた煙で視界が霞む。そうそう、こんな感じに。
 思考回路が停止しかけている状態で加賀さんの声だけが、何故かはっきりと脳髄に響いた。よくあるアニメとかで絶体絶命の主人公が敵を前にとびっきりの大技を繰り出す時に、周りの声がふっと途切れるあれ。きた、愛のパンチ。その一撃で、あたしは終われる。もう散々だ、いい加減殺してくれよう。悪役は本当は望んでいる。戦い続ける理由から、逃げたいんだよ。できれば、いい思い出だけ胸にしまって死にたい。あたしには闇堕ちした格好のつく背景はまったくないので、誰からも惜しまれることはないけれど。
 ありがとうございます、加賀さん。それが聞けただけで思い残すことは、あたしが結城に思い残すことは、もう、
「ま、告白じゃねぇけどな」
 そこんとこは間違えんなよぉ、と同じ声がした。耳奥に反芻して消えていく。もう一発強いの来るかと思ったら、全然別の角度から刺された、気がした。身がキュと締まって、目が冴えた。
「人の夢を、なぜ邪魔するんですか」
「は?わかりきってること言っただけだけど」
「いや、そうです、けど」
 はあ、と加賀さんは聞こえるようにため息を吐いた。白い煙があたしの前髪まで揺らす。加賀さんもまた、煙草を好む男だった。
「言われてないだろ、紗々芽ささめ。好きです、付き合ってください」
 ぐ、と言葉に詰まる。
「今加賀さん言ったよね?酒飲んだ時の言葉は本音だって」
「言ったよ」加賀さんが短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
「酒飲んだ時に好きって言われたら、それじゃ好きっちゃ好きですよね」
 勢いに任せて拳でテーブルを叩く。食器が驚いて小さく跳ねる。
 加賀さんは新しい煙草に火をつける。ゆっくりとした動作の後、吸う前に言う。
「あのなぁ、それはただ本音が出ただけなの。好き、とか可愛い、が脳内にぽっとでて、それが口からぽっと出ただけ。反射的に出ただけなの。こう疲れた日に風呂上がりにビール一気飲みしてうめぇ!って思ったのが口をついて出たみたいな」
「あたしは、ビール?」
「まあ、この例えならそうな。でもずっとビール飲み続けられるかって言ったらそうじゃないだろ。日常的に飲むのは水とかお茶で、飽きもせず飲むだろ。そこで考えてみろよ。自分にとってのビールと、水、どちらが大切か」
「みず…」
「そう、水。ビールは旨いけどビール飲んだ後、喉乾いたら水。その日飲まなくても、次の日の朝飲むのは水。ウォーター」
 わかっていることを他人に突きつけられると反抗精神が芽生えるのはなぜだろう。
「でもたぶん、好みはあるけど酒を飲むやつはハイボールとか焼酎とかもワインも一回は飲んでるぜ。ビールになれただけでもいいじゃねぇか。一口目最高だろう。それとも紗々芽、お前は結城の水になろうと思ったの?」
 たとえ話が始まったということは、加賀さんも相当酔っぱらってきたな。あーあ。さっきまで気持ちよく死ねそうだったのに。
 ぼうっとしていた頭の芯とみぞおちらへんが、ぎゅうと冷たくなる。目を逸らしていた現実が、気持ち悪さと相まって急速に押し寄せてくる。あーあ。さっきの思いやりパンチじゃなくて正論パンチで殺すなら、いたぶらずに一思いに殺れよ。針先ほど希望さえチラつかせずに、息の根をまっすぐ止めてくれよ。
 そう思うのは、さっき聞いた「酒を飲んだ時に出た言葉が本音」ってやつ、あたしの脳の片隅に希望が居座ってしまったからだ。あの日、結城から漏れ出た本音であろう言葉を、あたしはこの先他の誰かと寝ようが、結婚とかして子どもができようが、後生大事にしてしまうだろう。
 なぁ、と言った加賀さんがグラスを握り、残る酒を一気に飲む。喉仏がぐりっと動く。逆の手、筋張ったそれに握られた煙草。紗々芽、うちくる?そう動いた口に煙草は咥えられ、灰だった先が濃いオレンジになる。いいですよ、と言って目を閉じた。あーあ。なんでこれが結城じゃないんだろう。最低。煙もアルコールも食べたもの、空気、気持ち悪い。トイレ行きたい。もう全部、どうでもいい。

 結城僚ゆうきつかさ。一つ年下の同期。現在、営業部第二課所属。
 高身長。高学歴。ベビーフェイス。営業成績常にトップ争い。人当たりの良さ百二十点。
 社内の女性社員独自で男性社員の顔面偏差値を計測した結果、他を大きく引き離し、圧倒的数値を叩き出した。
 どうやら大学時代から付き合っている彼女がいるらしく、「どんな子?」と聞けば「俺にはもったいないくらいで…」と語りだす。彼女は想像以上のハイスペック。諦めかけたその時に、ふと見せる「なかなか会えないんだけどね」と呟く憂う気な瞳に、母性が溢れない女などいない。
 そして、新築のタワーマンション、少し生活感の見え隠れする2LDKに招かれたら最期。
 そう。彼の息にかかった女は、百発百中、昼間の甘いビジュアルと夜の顔に骨抜きにされる。
 噂では彼の部署の美しい上司も、男性社員が現を抜かす経理の後輩も、同期で唯一信頼していたあいつでさえ、結城と関係を持った。部屋を訪れた女は必ず、結城が隣で眠るセミダブルベットの中で朝を迎えた。まるで夢のような朝を。

 たった一人、あたしを除いて。

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