ある日記 1

 いつものことながら空は紫色だった。そしてどこか甘い匂いがする。空から匂いを感じるなんておかしいと我ながら思うけれど、空からは匂いがする。土の匂いがするように、空の匂いがする。胡椒のようにスパイシーに香る日もあればナッツのように香ばしい日もある。そう言うとコーヒーにうるさい人みたいだねと笑われたが、今日はザラメのような甘い匂いだ。綿菓子でも作れそうだ。
 子供のころからこうだった訳じゃない。ある日凄く変な夢を見てからこうなった。もしかして未だ夢から醒めていないのではと疑う毎日だったが、これ以外に特に不思議はないのでいつの間にか慣れてしまった。人と居る時についぽろっと今日はいい匂いするね空、などと呟いて変人扱いされるくらいだ。
 
 夢を見るのはいつも少し怖い。夢が怖くて眠れないという子供だったが、大人になった今でもそうだった。因みに、映画を観るのも苦手だ。始まってしまえばなんてことはないのだが、椅子に腰掛け始まりを待つ瞬間が、いつも苦痛だった。これを人に話すと怖がりなのだねと言われるが、これ以外のことは実はあんまり怖くない。動じないねと言われるくらいで、度胸試しや肝試しの類は頼もしいと言われたりつまらないと言われたりする。

 夕方、久しぶりに水井と会った。いつもより元気がなかった。あまり眠れていないらしかった。もう少しで仕事がひと段落するからそれまでの辛抱だと言った。もう少しと言いながらも目処が立っていない様子で、話を聞けば聞くほど不安になった。
 自分も昔、眠りにつくのが嫌でいつまでもいつまでも仕事をしていた。結果寝落ちするのだが、その不健康な就寝方法が一番安心出来る眠り方だった。死ぬ時もこんなふうに強制終了で終わらせて欲しいなと思う。
 水井は、君は元気そうでよかったと言う。彼の仕事は何だったかなとふと思ったので訊くと、忘れちゃったのかと笑って、色を塗る仕事だよと言った。塗っても塗っても終わらなくて気が滅入る、でももうちょっとの筈なんだと苦しげに言った。

 その夜、夢をみた。水井が出てきて、仕事をしていた。彼が木の葉に絵筆をのせれば鮮やかな輝く緑の葉になった。その前は何色をしていたのか思い出せないくらい、目に焼きつく鮮烈なグリーンの葉になった。つやつやと、水滴がしたたりおちてくるような。

「めいっぱいに光合成をしている感じに仕上げてくれとの依頼なんだ」
 その分、水井の栄養素が抜けてくような。色が薄くなっていくような。
 そんな印象が、拭えなかった。

 夢の空は無臭だった。空には匂いが無い方が落ち着く。

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