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「文章力」とは何か ~「cakesホームレス記事炎上事件」にまつわる雑感

こんにちは、Cahierです。相変わらず休職中で、暇を持て余しております。にもかかわらず、全然noteには手を付けられていませんでしたね、すいません。

noteに手を付けていなかったこととは全然無関係なのですが、ここ最近は、「文章力」というものに関して思索にふけっていました(noteをサボっていたのは怠惰のため)。

休職をしてから、ちょっと魔が差して、文章で飯を食っていこうかな、という気分になった時期があったんですね。で、自分にはそれに足る「文章力」があるのか、というのをチェックしてみようと思ったんです。そしたら、思いもよらぬ壁にぶち当たってしまったんです。

それは、「文章力」という言葉がまったく定義のはっきりしない言葉であったということです。

我々(僕だけか?)は、「文章力」という得体のしれない言葉を、全く無頓着に使ってしまっているということに気づいてしまったんですよね。

試しにみんな大好き(?)weblio辞書で「文章力」を引いてみましょう。「文章力」とは

文章を書く力、能力。

らしいです。そう……(無関心)。

実際には、僕も含めて、多くの人が単に「文章を書く能力」以上の意味を「文章力」という言葉に込めていると思います。例えば、文法の正しさ、語彙力、論理的構成力などです。もっと細かく、「てにをは」や「5W1H」のような具体的なテクニックを含める場合もあるでしょう。

このように、「文章力」という言葉、あるいは能力は多種多様な要素を含んだものであると考えられます。「文章力」という言葉の曖昧さはここに原因があるのでしょう。

では、文章のどこを見れば「文章力」が分かるのか。言い換えれば、我々は文章のどこを見てその良悪を判断しているのでしょうか。

それが分かれば自分の今の文章力も分かるし、どういったスキルを伸ばしていけばいいのか分かるなあ、というようなことをここしばらくは考えていました。

で、答えが出たかというと、特に出てはいません。そう簡単に出るものでもないですし、答えを出すために勉強したりしているわけでもないですからね。ただ、この「文章力」の定義問題に自分の中で答えを出す一助になるような出来事が最近ありました。それが、サブタイトルにもある「cakesホームレス記事炎上事件」です。

「cakesホームレス記事炎上事件」とは?

「cakes」とは、「note」の運営会社であるnote株式会社(旧株式会社ピースオブケイク)が運営するウェブメディアです。2020年11月11日、当該メディアにある記事が投稿されました。それがこちら。

この記事は、cakesクリエイターコンテストで優秀賞を受賞した、いわばcakes一押しの記事の一つだったのですが、当該記事が「ホームレス差別」であるとしてSNS上で糾弾を受けたのが、「cakesホームレス記事炎上事件」になります。具体的にどのような批判を受けたかについては以下のtogtterを参照してください。

【大炎上】note社が運営するcakesでホームレス差別をする投稿が受賞し内容の非道さから大炎上

先述の通り、僕はこの事件から「文章力」の本質に至れそうな示唆を得たわけですが、その前に当該事件に関する僕の個人的な所感から述べたいと思います。

【以下、2020年11月17日追記】
cakesクリエイターコンテストで優秀賞を受賞したのは上記の記事ではなく同筆者の以下の記事とのことでした。お詫びして訂正いたします。

教えていただいた春名風花さん、ありがとうございました!

【追記ここまで】

当該記事は「ホームレス差別」だったのか?

まずは見出しのクエスチョンに回答するところから始めましょうかね。結論から言えば、「差別であるか否かをジャッジすることはできない」というのが僕の所見になります。

当該記事を読む限り、これといって際立った差別的な表現は見受けられませんし、当該記事の筆者たちは、取材の傍ら、3年も継続してホームレス支援に携わっているわけですから、少なくとも筆者たち自身には「差別意識」はないと判断するのが妥当でしょう。

一方で、差別とは必ずしも自覚的に行われるわけではありません。むしろ、現代日本においては無自覚に行われる差別の方がより一般的でしょう。もちろん、自ら進んでホームレス支援を行っている筆者たちについても、無自覚な差別意識を持っていないとは言い切れません。上で挙げたtogetterで当該記事を批判している方々は、まさしく当該記事からこの無自覚の差別意識を読み取っているわけです。

また、原理の妥当性はともかく、現実的には、差別には「差別を受ける側が差別だと思ったら差別」というような側面もあるように思われます。こうしたことも踏まえると、僕自身がこうした問題にあまり明るくないのもあり、当該記事が差別的であるか否か、あるいは当該記事の筆者らが差別主義者であるかをジャッジするのは困難であり、判断を留保せざるを得ません。

そうしたうえで、「なぜこの記事が差別的であると批判を受けたのか?」というクエスチョンについて考えていきたいと思います。

「ホームレス記事」はなぜ炎上した?

上で挙げたtogetterや、その他ツイッターでの反応を見ていると、当該記事への批判は主に「ホームレスを自分とは違う生き物であるとみなし、一方的な『観察対象』に貶めている(そして、それこそが差別的な態度の表明に他ならない)」というような論調が多いと感じます。実際、この見立てはそう大きくは間違ってはいないでしょう。差別かはさておき、筆者らが、ホームレスを自分たちとは全く異質の存在であると考え、観察していることは、以下のような記述から容易に読み取ることができます。

おじさんたち[筆者注:ホームレスのこと]の時間にとらわれないゆったりとした生活スタイル、『となりのトトロ』に出てくるような森の木々をかき分けて進むと突然ひらけた空間に現れる小屋、何でもかんでも燃やすことのできるかまど、天候によって左右される野菜の収穫など、私たちが日常を過ごしているなかではめったに出会わない要素がたくさん散りばめられている。
毎日決まった時間に起きて、朝食をとり、準備をして、仕事に出勤、帰って来たら夕食を食べ、お風呂に入って寝る、というルーティーンのなかにももちろんそれなりの幸せは感じている。
しかし、ときどきそんな自分とは違う生きかたを覗きに行きたい気持ちが生まれる。
私たち夫婦が田舎の河川敷ホームレスの人たちを3年間も継続して取材し続けていられるのは、おじさんたちの生活を見て感じた異世界性が大きい要素なのだ。
とはいえ、私たちはおじさんたちのような路上生活をしようとは思っていないし、現在のテクノロジーに囲まれた生活を続けていきたいと思っている。
そのうえで、おじさんたちの日々からみえてくる様々な工夫や生活の知恵を追いかけたい。それは、私たちが日常生活をしているなかでは触れる機会が少ない体験をおじさんたちを通してできるという刺激が根本にはある。

ここで考えたいのは、他者を自分とは異なる存在だと考えること、あるいは他者を「観察対象」とすることはそんなに罪深いことなのか?ということです。

まずは前者について考えてみましょう。他者を自分と異なる存在だと考えることが罪深いことなのか。そんなわけないですね。こんな変な文章ってありませんよ。自分と他者は異なる存在に決まっていますからね。さすがに「違う生き物」であるというところまで行ってしまうと問題があるかと思いますが、少なくとも当該記事の中で筆者が明確にホームレスを「違う存在」ではなく「違う生き物(すなわち『非』人間)」であるとみなしているような記述は見受けられませんでした。上記の引用箇所で言えば「『となりのトトロ』に出てくるような森の木々をかき分けて進むと突然ひらけた空間に現れる小屋」や「おじさんたちの生活を見て感じた異世界性」などといった表現が引っかかると言えば引っかかるのですが、まるで異世界のような場所で異世界のような生活をしている部族・民族なんて世界に山ほどいると思うので(多分)「非」人間的な扱いをしているとする根拠としては弱いと思いますね。この辺は個人の感覚の問題だとは思いますが。

サラッと流しましたが、恐らく当該記事が炎上した原因の一部がここにあります。つまり、まるでホームレスをどこか違う国の違う部族かのように扱っているという点です。

上記のtogetterにはまとめられていませんが、このような指摘もなされています。

しかし、ここでもさらに疑問がわいてきますよね。「『パプワニューギニアのンガンボ族』に向ける視線を日本のホームレスに向けてはいけないのはなぜか?」という疑問です。ここでの「視線」とは、まさしく「観察対象」へ向ける視線であり、先にあげた二つのクエスチョンのうち、「他者を『観察対象』とすることはそんなに罪深いことなのか?」という後者のクエスチョンにつながってきます。

これに関しても、まあ、「問題なし」と言えると思います。僕は大学では「地域研究」と呼ばれる学問分野で学びました。この分野は特定地域の特色について幅広く研究する分野で、様々な研究手法が用いられている場所ではありますが、「地域」というものに目を向ける都合上、やはり「参与観察」と呼ばれる研究手法が尊ばれる傾向にあると思います。また、それが必要不可欠な研究を行う人も多いです(あくまでも僕個人の印象です)。参与観察とは、研究対象とする地域や集団に実際に参加し、イベント等の体験やインタビューを行う研究手法です。一般的には文化人類学の研究手法とされていますね。地域研究にせよ、文化人類学にせよ、今自分がいる文化や集団とは全く異質な文化・集団を研究しなければならないわけですから、まずはそれらのことを深く知らなければなりません。そのために、参与観察を行うのです。

だいぶ長くなりましたが、僕が何を言いたいかというと、他者を観察することは他者理解の手段の一つに他ならないのです。実際、当該記事の筆者らは、観察を通して他者理解に成功していると読み取れる記述があります。以下の箇所です。

おじさんが不法投棄物から見つけて来た代物に対して、きれいにして、色も塗り替えて、使いやすいように作り変えるスキルがあったことに心底驚いたが、そもそもきれいさや使いやすさにこだわるような人たちではないと思い込んでいたところもあった。誰だって自分が使うものがきれいであるほうが嬉しいはずなのに、その当たり前からおじさんたちを外し、私たちの中に偏見があったことに気がついた。

彼らは実際に観察を通し、ステロタイプから解放されているわけですね。

以上より、冒頭にあげたような「ホームレスを自分とは違う生き物であるとみなし、一方的な『観察対象』に貶めている(そして、それこそが差別的な態度の表明に他ならない)」というような論調の批判は、勇み足、あるいは的外れであると言わざるを得ないでしょう。

では、それにもかかわらず、なぜこの記事は炎上したのか?その原因こそが「文章力」の欠如なのです。

「文章力」とは何か?

上で述べたとおり、正直言ってツイッター上で交わされている当該記事への批判は的を射ないものが多いです。それにも関わらずなぜここまで批判が殺到したのか、それは、当該記事がホームレスの生活を面白おかしく描いているからに他ならないと僕は考えます

ホームレスといえば、基本的にはどんなに明るくふるまっていても経済的には弱者も弱者なわけですから、面白おかしく描くような論調では受け入れられづらい、というのは理解できます。それでは、なぜ筆者らはホームレスの生活を面白おかしく書いてしまったのか。僕には何となくわかる気がします。恐らく、筆者らにとって、ホームレスとかかわり、ホームレスの生活や文化を知ることがたまらなく面白いものだったからでしょう。

当該記事の炎上に伴い、筆者らの過去のnote記事も炎上しています。その一つが以下になります。

下手をすればcakesに掲載された記事以上にボコボコに叩かれている記事ですが、この記事に非常に面白い箇所があります。

突然ですが、皆様の日常、普段の生活で当たり前にしていることって何がありますか?
僕個人の話で言えば、会社に働きにいくとか、お風呂そうじの様な家事や子供の世話をすることになります。
取材しているホームレスのおじさん達の場合はどうでしょう?
ちょっとだけ箇条書きでまとめてみます。
◼️露出狂が家に来てセックスを見てあげてお礼をもらう。
◼️不法投棄物から発電機をつくって深夜アニメを観る。
◼️森の中で竹藪から切り出した竹で2階建ての小屋を作る。
ざっと書いてみても、特殊すぎる出来事と感じるし、これらはあくまでもほんの一端に過ぎないというのが驚きです...。(三点リーダー原文ママ)

この部分、めちゃめちゃ面白くないですか。「露出狂が家に来てセックスを見てあげてお礼をもらう」とか、実際に話を聞いたら絶対爆笑するでしょ。多分筆者らは実際にホームレスからこの話を聞き、そして爆笑したはずです。

多分ですけど、筆者らはこれと同じような体験を記事の読者にもしてほしかったんじゃないですかね。だから、ホームレスの生活を面白おかしく書いてみた。ところがその結果、読者から出てきたのはつぎのような感想だったわけです。

「ピュアな自由研究みたいな文章」になっちゃったわけですね。悲しいなあ……。

かなりの部分が僕の想像ですけど、今回の炎上事件は、こうした不幸なすれ違いが生んだ結果だったんじゃないかなあ、と思います。筆者らは自分たちが感じた「面白さ」を読者にも感じてほしかった。しかし、実際に読者が感じ取ったのは筆者らの差別意識だった。で、その不幸なすれ違いを生んだのは、筆者らが記事を書くにあたり選んだ「文体」が原因だったんだと思います。

残念ながら、当該記事を書くにあたり、筆者らが選び取った文体は、cakesというメディアで、「ホームレス」を題材にした記事を読むような読者層向けではなかった。もっと適切な文体を用いるべきだった、というのが僕による今回の炎上騒動の総括です。

で、この炎上事件の考察を通し、僕が考えたのは、文章を書くにあたり、自分の意図を適切に読者に伝えられるような適切な文体を選び取る能力、これこそが「文章力」の正体なのでは?ということです。

もちろん、冒頭で述べたように、「文章力」というのは複合的な能力ですから、「これこそが『文章力』だ!」と決めつけてしまうのはあまりにも尚早です。しかし、畢竟、読者に自分の伝えたいことが伝わらなければ、どんなテクニックも意味を成さないとも思うので、この「適切な文体を選び取る能力」は上手い文章を書く上で必要不可欠な能力の一つなのではないかと思います。

終わりに ~「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」はどうすればよかったのか

最後に、じゃあどうすればこの記事は炎上を免れたのか、ということについて、僭越ながら考えてみたいと思います。

解決策としては二つあって、

①cakesに適した文体に変える
②今の文体に適したメディアに載せる

このどちらかかなあ、と思います。

ツイッターだと、以下のような考察をしている方もいますね。

cakesでこれができるのかは知らないですけど。ほかのメディアだとこの記事なんか近い雰囲気なんじゃないですかね。

僕だったら、もっと自分のことを卑屈に書くかなあ、と思います。当該記事の筆者らはちょっと傲慢なんですよね。こことか

(前略)現在はもうすこしアップデートされた私たちなりに感じるホームレスの魅力が取材の原動力になっているのだが、活動の始まりは漠然とした興味だけでなんとなく走り出していた。

自分で自分のこと「アップデートされた」なんて言うの、ぶっちゃけめちゃめちゃ傲慢で不愉快ですよね。この自認から以降の文章が出てきたら、まあキレる人が出てくるのも分かります。

なんていうか、「いやぁ~、自分らなんてまだまだひよっこの差別主義者ですよ!まあ、ひよっこなりに頑張っていくんで、暖かく見守ってくだせぇ。へっへっへ……」みたいなノリだったらこんな炎上しなかったと思うんですよね。当該記事の筆者の方々、この記事読んだら参考にしてください。あとお金もください(ここ2か月ほど無収入なので)。




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