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谷川俊太郎とジャック・プレヴェール、あるいは様々な朝について

そのニュースを読んだ朝のことは、もうよく覚えていません。
けれどもその件について、ある人が新聞に寄稿した文章を読んだ朝のことは、よく覚えています。

とはいえ私はその文章の書き手を存じ上げず、ご本人が"谷川さんの後輩の詩人"と名乗られるのにまず興味をひかれました。
その詩人は最初のくだりで「谷川さんの死を全く悲しいとは思わない」と言い切りました。その理由は「谷川さんの詩を通して、何事にも終わりはなく、死もまた存在しないということを学んだ」からです。

そのてらいのない書きぶりに、私はその人が心の奥底からそう確信していること、そこに書かれた通りの心持ちで日々を過ごしていることを信じました。
それは不思議なほどに私の気持ちも落ち着け、やはりそうなのだ、だからこそ私もほとんど悲しみを感じないのかもしれない、と安心したほどです。


そのくらい、谷川さんが亡くなったとニュースで知っても、なぜか強い感情が湧いてきませんでした。大変驚きはしましたが、普通ならばそんな場合に感じるであろうショックや喪失感は、不思議と感じなかったのです。
谷川さんの詩集を、何冊も本棚に並べているにもかかわらずです。

続々と流れるどんなニュースにも、ただぼんやりと接するばかりで、そんな中しっくりきたのが、その詩人の文章でした。
私も谷川さんの死は何かが終わってしまったという証や区切りではなく、それで何かが変わるわけでもない、と考えています。


もちろん今後、谷川さんが紡ぎ出す新しい言葉に触れられない残念さはありますが、幸いにも多くの詩や本が残されています。

二葉亭四迷が文学に口語表現をもたらし、夏目漱石がそれをさらに普遍的な話し言葉へと変化させたように、谷川さんは時に難解で現実と乖離していた詩の言葉を、より日常のものへと移し変えました。

それは作家 井上ひさしが繰り返し説いたような、平たく明快、それでいて深さを伴った言葉でした。
それまで誰も表現し得なかった、そしてその後は誰もが当たり前に用いる、日本語の詩の世界における共通語のような言葉です。


これは私の思い込みに過ぎないかもしれませんが、谷川さんは日本語での書き言葉の表現を、過去のものとは完全なる別物へと作り変えてしまったように思えてなりません。
以後、すべての人々がその影響を受け、私がこうして綴る文章もまた、その影響下にあると言えるのです。

軽やかにそんな偉業を成し遂げながら、ご本人はおそらくそういったことを意図も意識もしていなかったであろうことが、また凄さの一つです。


他に似たような人は、と尋ねられたなら、私が思い浮かべるのはジャック・プレヴェールただ一人です。
言わずと知れたフランスの芸術家であり、詩人で、脚本家で、作詞家で、童話作家と、文字通りの言葉の天才でした。

プレヴェールが手がけたどんな分野の仕事も、一目でそれとわかる気配と色とをまとい、書かれた文字のひとつひとつが、新鮮な喜びや生命力や、底光りするような魅力をたたえているのです。
それも、決して複雑で難解な言葉や表現、私たちが使うものとは違う、別次元の言葉を用いているのではないのにです。

誰もが耳なじみのある、ありふれた言葉を並べながら、それがプレヴェールの手にかかるや素晴らしい物語性を帯び、詩的な深みが発揮されるのですから、一体どんな魔法が発動しているのだろうと思います。
まるで軽業師のように易易と離れ業を行いながら、その創作物は常に自然で、決してどんな苦労の跡も感じさせないのです。


それはまるで谷川さんの詩のようでもあり、こうしてプレヴェールのことを書いていると、その言葉が谷川さんを表現するのにそっくりそのまま当てはまるのに、あらためて感嘆の念をおぼえます。

画家のヴィンセント・ヴァン・ゴッホが弟テオに宛てた手紙に
「自分の周りに美が無いのを嘆くのではなく、自分に美を見つける目が無いのを嘆くべきだ」
という一文があるように、私が敬愛する二人の詩人は、確かにそんな目を持っていました。
二人は日常のどんな場面にも美を認め、心を深く打つ物語を発掘する天才でした。

だからこそ、その詩は決して価値を減じませんし、私たちの日常がこれからも淡々と続くかぎり、それらの詩もまた、私たちの内で続いていくのでしょう。


◇◇◇


『朝食』
ジャック・プレヴェール


カップにコーヒーをいだ
コーヒーにミルクを入れた
コーヒーに砂糖を入れた
コーヒーを小さじで混ぜた
コーヒーに口をつけた
そしてカップを置いた
私には何も言わなかった
煙草に火を付けた
煙で輪っかを作った
灰皿に灰を落とした
私には何も言わなかった
私には目もくれなかった
席を立った
帽子を頭に乗っけた
レインコートを着た
そして雨の中を出て行った
私には何も言わなかった
私には目もくれなかった
そして私は頭を抱えた
そして私は涙を流した

(訳 ほたかえりな)



『おはよう』
谷川俊太郎


あさ、めがさめたら、いちばんになにをする?
ぼくはカーテンをあける。おひさまがさしこむと、きもちがいい。
でもくもっていても、あめがふっていても、もんくはいわないようにしてる。
だって、よがあけて、あさがくるっていうのは、あたりまえのようでいて、じつは、すごくすてきなことだから。



『朝』
谷川俊太郎


今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい





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ほたかえりな
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