見出し画像

「大丈夫、疲れてないから」

「アラビア語、フランス語、ベルベル語、英語、スペイン語…かな」
こともなげにそう口にする、モロッコ人医師のアディル。

「あなたは一体、何カ国語を話すのか」
という私の問いに対する答えです。

これまで私は日本語教室の手伝いを通じ、20カ国を超える国の人々と知り合いましたが、その中でも彼は断トツの多言語話者です。

モーリシャス諸島出身の男性も英語、フランス語、クレオール語が話せましたし、2、3カ国語を操る人はそう珍しくもないのですが、5カ国語ともなると、私の知る限り他に例がありません。


“スペイン語と英語は後付けで学習したのでやや不自由”だそうですが、それでもその語彙の豊富さ、会話のスピードは、私などとても太刀打ちできないものです。

ペルー人女性からスペイン語のレッスンを付けてもらい、少しは話せる気になっていた私は、意気揚々と始めたアディルとのスペイン語会話ラリーの数回目で、早くも言葉に詰まるというありさまでした。

それでもアディルは
「いや、あなたがフランス語を話すことにも、アラビア語で挨拶してくれたことにもびっくりした。日本の人がどうしてわざわざ、って思うけどすごく嬉しい」
そう言って慰めてくれます。

彼からすると、日本人の私がさしたる必要もなく外国語を勉強していることは、ずいぶん奇異に映るようです。


それというのも、彼が多国籍語を操るのは生活上の必要に迫られてであり、決して趣味のためではないからです。

アディル曰く、幼少期からモロッコで暮らせばアラビア語とフランス語は普通に話せるようになる。家族や仲間内でやり取りする際のベルベル語、大学の授業のための英語、インターン先で必要だったスペイン語も加えて5カ国語が使えるけれど、他にもそんな人は大勢いる。

日本人的な見地からは、自動的に多国籍語が習得できるのはうらやましい環境ですが、それはそれでストレスもあるそうです。

いくつもの公用語を持つ国では友人知人、学校、会社、街なかと、相手や場面ごとに使う言語に気を配り、いちいち頭を切り替えねばなりません。
また、言葉が違えばその人のバッググラウンドである文化や価値観も大きく異なります。

日本のように、ひとつの言語だけで暮らせる方がどれだけ心穏やかに過ごせることか。
そう聞かされれば、確かにそうかもしれないとも思います。


アディルはモロッコ政府のプロジェクトで海外派遣された医療団の一員であり、日本各地で研修や交流会など、様々なプログラムをこなしていました。

その間はもちろん正規の通訳が付きますが、オフの日はその限りではありません。
それでは勝手がわからず街歩きも不安というため、私が一日限りの案内役に手を挙げたのが、彼との出会いのきっかけです。

私たちの会話はフランス語に英語、無意識に挟むアラビア語や日本語と賑やかで、お互いに好奇心が強いタイプだからか、知り合ったばかりでも全く話が途切れません。

彼はやや威圧感のある見た目に反し、態度や話し方は柔和で優しく、一緒に過ごすには楽しい相手でした。

巨大ターミナル駅の中を歩き、モロッコの家族にお土産を買い、神社に立ち寄り、日本で流行しているファッションブランドのショップを覗き、と充実した時間の中、困ったのは二点だけです。


一つは、イスラム教徒の彼が利用できるお店が限られること。
完全なハラールフードは望めないまでも、豚肉やアルコールなど、絶対的な禁忌は頭に置いて食事先を選ばねばなりません。

そこにちょうど食事時という事情も重なり、これはという和食店に入るまでに、一時間ほどもかかりました。

そのため、私が「ちょっと疲れた」ともらしたことが、二つ目の困りごとの発端です。


それを聞いた途端に彼の顔色が変わり、その後はほぼ30秒おきに
Est-ce que ça va大丈夫
の繰り返しです。

イスラム教徒の彼は“男性は女性を助け守るべし”という教義を絶対としているため、私に少しでも負担をかけてはならないという点に全神経を集中させます。

犬の散歩で慣れている、長時間歩くのなんて何でもない、そんなにか弱くもない、と言ってみても通じません。

彼の顔色の曇りは晴れず「大丈夫?」「疲れてない?」「休憩する?」の問いかけが延々と続くのです。

私もそのつど
Non, ça va大丈夫Je ne suis pas fatigué疲れてないから
と繰り返す無限ループの方が、正直に言って飲食店街をさまよい歩くよりよほど疲れました。


けれどそれ以外は、どこまで通じるか心配だった私の独学フランス語観光ガイドも、おおむねは成功です。
身振り手振りや翻訳アプリの助けも借りつつ、遠いアフリカ大陸から来た人と半日を共に出来たのは素晴らしい体験でした。

私はどれだけ頑張っても彼のように数カ国語を自在に操れる様にはならないでしょうが、こんな機会がある度に外国語熱も再燃するというものです。

ちょうど今、南米のラジオ番組でDJが艶やかなサルサを流しています。
良いタイミングだし、本棚にしまいっぱなしのスペイン語会話集でも開いてみましょうか。

¡Hasta luegoそれではまた





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?