線たちが織りなす世界
直線は人間に、曲線は神に属する。
─── アントニ・ガウディ
ある屋敷を訪れた一人の客。
座敷で歓談するうち茶が運ばれて来るものの、それを捧げ持つのは家人でも奉公人でもなく、子どものような“茶運び人形”
人形は目を丸くする客の前に茶碗を差し出し、一礼すると速やかに去って行く。
江戸時代、富裕層でこんなちょっとした遊びが流行り、人にお茶を出すからくり人形を持つことは大変な自慢であったそうです。
再現されたその姿は愛らしい顔立ちに豪奢な着物と、こんな人形が登場すれば話もずいぶん弾んだだろうと思わせます。
ただ動きはさすがにぎこちなく、お辞儀も首を前方にかくんと倒すだけと、優雅とは言えないのは仕方のないことでしょう。
このこわばった動作こそ旧型ロボットのイメージそのものであり、映画やアニメの世界でも、カタカタと動く機械仕掛けのキャラクターをよく目にします。
歌舞伎の義太夫狂言にも人が人形になりきる“人形振り”という表現があり、たとえば坂東玉三郎さんのような名優が演じれば、舞台上で躍動するのは艶やかな人形にしか見えません。
その堅く直線的な動きを追ううち、無機物と有機物を分ける境目は、どうやらこの辺りにあるらしいと思えてきます。
「自然に線は存在しない」
こう述べたのは画家のポール・セザンヌですが、確かに彼好みの自然風景の中に、直線はどこにも見当たりません。
もし大都市の絵を描くとするなら、定規を手に取りたい場面は多いでしょうが、森や海ならその必要もないでしょう。
一見、真っ直ぐな線のような木の幹や水平線、遠くの山々の稜線も、目を凝らせば豊かで複雑な曲線を持っています。
19世紀から20世紀への移行時期には、産業革命など世界的に重要な事柄が起こりましたが、私はその背景に曲線と直線の交代もあるように思います。
主に欧米を中心に、19世紀末から20世紀初頭にアール・ヌーヴォー、1910年代から戦前まではアール・デコ様式が、美術・建築・洋服・デザインとあらゆる分野で世の中を席巻しました。
このふたつの様式を分ける、最も特徴的な違いは線であり、アール・ヌーヴォーは自然がモチーフの曲線、アール・デコは幾何学模様が元の直線的デザインです。
アール・ヌーヴォーは大量生産に不向きなため、近代の始まりと共に世の中から退場しますが、その残り香はミュシャのポスターやギマールによるパリの地下鉄の出入り口、ガレのガラスに宝飾品、ガウディの建築、モリスの壁紙と方々に見られます。
私は美術品を投機対象と見るのは好みませんが、ことにガレのランプなどは世界中で引き合いがあり、現在でも価値が上がり続けています。
植物の蔦や咲き誇る花々に覆われたアール・ヌーヴォーの時代が去ると、代わりに台頭したのがアール・デコで、トゥーマッチな甘さが消え、都会的で洗練された美の文化が広がります。
ラリックやティファニーのガラス製品、ニューヨークのクライスラービル、バルビエのイラストレーション、日本なら旧朝香宮邸も完璧なモデルといえます。
この時代の直線デザインは不思議なことにどこかに体温や遊びがあり、戦後のコンクリート建築の合理性とは一線を画しています。
その理由をうまく説明するのは困難ながら、まだ前時代の気分や精神が受け継がれていたから、という理由はあげられるように思います。
工業化や大量生産は人類史始まって以来初の試みであり、そうして出来上がっていく文化や製品もまた、既存の文化の影響からは完全に脱していませんでした。
だからこそ直線で構成され計算され尽くしたデザインにも、根底にはある種の柔らかさや円やかさが見え隠れしていた気がします。
私は決して直線的なものを否定しているわけではなく、物理学者・湯川秀樹の
「人間は何故に直線を選ぶか。それが最も簡単な規則に従ふといふ意味において、取扱ひに最も便利だからである」
という分析にはうなずきますし、自分も直線の恩恵を受けているとも思います。
けれどそれだけではどこか飽き足らない気持ちになるのは、人間が作った直線のみでは、何かが抜け落ちているように感じるからです。
その何かは自然的なものであり、だからこそ直線の枠外にあるもの、自然や動物などに心が向きます。
それは格好の良い言い方をすれば、命の匂いを求めている、と言い換えることもできるでしょう。
円と線。そのふたつが補完し合ってこそ、この世界は完全なものになる。
私はそんな風に思います。
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