文系?理系?
「俺ができるアドバイスはひとつ。誰のアドバイスも聞くな。もちろんこのアドバイスも」
アメリカのコメディアンのこんな言葉を聞き、感心したり笑ったりだったのですが、近いものを感じたのが、ある脳学者がテレビでこう断言するのを聞いた時です。
「テレビに出る脳学者にまともな学者はいません」
その理由は、もしちゃんとした学者であれば、今ごろ研究に忙しく、メディアで油を売っている暇などないはずだから。
さらにその方は、信頼できない脳学者の見分け方として、あるふたつのワードを使うか否かをあげました。
そのワードとは〈男脳・女脳〉と〈文系・理系〉
脳にこのような区別があるわけがなく、学術的に信頼に足る論文が書かれた事実もない。
これらは完全に“大衆向け”の表現のため、もしこの言葉を使う“専門家”がいたとしたら、その学者は人気取りに走っているか、三流以下だと考えて差し支えない、というお話でした。
なんだか納得だと感じたのは、もし脳がそんな風に分類されるとしたら、世の中にはあまりに解せないことが多いからです。
特に、いわゆる“理系”の方が書く、詩的で格調高い、いかにも“文系”な文章をどうとらえれば良いか、など。
たとえば『ファインマンさんシリーズ』で有名なリチャード・P・ファインマン。
ノーベル物理学賞を受賞した天才物理学者でありながら、話芸の天才で、エッセイの面白さも折り紙つき。没後35年が経った今も世界中に存在するファンたちが、それを証明しています。
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あるいは1861年に発行された、イギリス人科学者マイケル・ファラデーによる『ロウソクの科学』
クリスマスの夜に少年少女たちに語られた、ロウソクから見る世界の深遠さについてのお話で、多くの子どもや大人たちに読み継がれている傑作です。
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『センス・オブ・ワンダー』も、何度読み返したか知れません。
レイチェル・カーソンがどこまでも詩的に、自然の素晴らしさとそのかけがえの無さを語り尽くした名著であり、どれだけ時を重ねても、その魅力は色褪せません。
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日本の科学者ならば『雪は天からの手紙』を残した中谷宇吉郎がいます。
世界で初めて人工的に雪の結晶を作り出した、極めて美しい眼で世界を見ていた人です。
その眼を通して語られる自然科学の世界に触れるうち、こちらも清明さで満たされる思いがします。
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科学と文学を融合させた、忘れてはならない人が“寺田物理学”の寺田寅彦。
優れた物理学者であるだけでなく、文学者、俳人でもあり、夏目漱石を師と仰ぐ名文家でした。
どの作品も決して他の人には書けない独自性を持ち、知的で自由奔放、何より読ませる人です。触れる話題も多岐にわたるため、決して飽きることがありません。
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他には、書ききれないほどの肩書きを持った、定義できない異才・南方熊楠。
私は熊楠の著書だけでなく、記念館や博物館でもその業績の一部に触れたのですが、文系理系などとカテゴライズすることすら不可能な、凡人には理解が追いつかない知性の冴えわたり方でした。
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数学者ならば岡潔。
代表作『春宵十話』は、今なお読む者を引き込む現代性を持っており、これが1963年に書かれたものとは信じられません。
私には中身の見当もつかない“多変数解析函数論”を専門とする、京都帝大やポアンカレ研究所にも通った超一流の数学者が、自分にとって最も大切なのは“情緒を数学する”ことだと述べています。
義務教育の間、必要な教科は〈こころ〉〈自然〉〈社会〉の三つで十分だという考えは素晴らしく、私もできることならそんな学校で教育を受けたかったと思います。
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同じく数学者で現代に生きる方なら、藤原正彦さんも近い考えをお持ちの方です。
『国家の品格』などエッセイストとしても有名で、その文章の巧みさ、表現の豊かさは、同じく有名作家のご両親を引き合いに出す必要もありません。
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そして、リアルタイムで活動を追える幸福を感じさせてくれる『動的平衡』で高名な生物学者の福岡伸一さん。
天は二物を与えずは誤謬であると確信させる、あの文才。味わい深いエッセイを綴るのみならず、『ドリトル先生』の続編を生み出す創造性までお持ちです。
絵画への造詣の深さもお馴染みフェルメールに留まらず、熊田千佳慕への的確な評価には、個人的に強い喜びを感じます。
これだけ長々と並べれば、少しは文系理系の区別の無益さの実証になったでしょうか。
欲を言うと、“文系”の人が見せる“理系”分野での活動について書けなかったのが残念です。
最後に、数学者・岡潔の言葉をひとつ。
人間が人間である
中心にあるものは
科学性でもなければ
論理性でもなく
理性でもない
情緒である。
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