見出し画像

みんな自分がわからない

紅葉の盛りが全国で報じられ、どこも大勢の人で賑わった先週末。私も奈良県のお寺へ出かけてきました。
とはいえ紅葉狩りが目的ではなく、お寺主催の、とある集まりへの参加のためです。もう何年も継続されている、心理学を通して仏教を学ぶ勉強会で、講師は有名な心理学者が勤めています。
以前から参加を願いつつ、ここ数年の大きな社会変化による休会で、それも叶わず。この秋になっての再開で、ようやく私も集まりの一員に加われました。

お寺の美しさ、風光明媚な土地、皆さんで周辺を散策したこと。書き出せばきりがなく、話に収拾がつかなくなりそうなので、ここでは講座の風景の一部に触れるにとどめます。
お寺のご本尊は別の場所にあり、集まりが持たれたのは、見事な弘法大師のお像が祀られた御堂です。小さなお子さんを含む二十数名の参加者は、各々好きな場所に座り、お接待のお茶とお菓子を手に、講師の話に耳を傾けました。

およそニ時間ほどの会のはずが、時間の感覚が消えていたのが不思議なことでした。始まった頃は明るかった窓の外が、終了時には真っ暗。おそらく他の方々も同様であり、誰もが時間を忘れ、話に没頭している様子が見て取れました。
けれど会の空気は決して緊迫したものでなく、しばしば笑い声が上がり、部屋の隅っこで遊ぶ子どもたちの声が響き、猫が気まぐれに歩き回り、お茶のおかわりに立つ人がいて。勉強会というよりは、ずいぶんくつろいだ寄り合いの雰囲気でした。
これがたとえばどこかの会議室を借りてでは、こうはいかなった気がします。お寺の広間という、少し特別、かつ大きな包容力を持つ場所だからこそ、皆が意見を共有し合い、自由に考えを巡らせる風通しの良さにつながったように思うのです。

後半になると質疑応答の時間が設けられ、この特別な機会を逃すまいとするかのように、様々な年齢性別の方が次々と手を挙げ、感想や個人的な相談を口にしました。
きわめて個人的なお話も多く、それらをそのままここに記すことは出来ませんが、数多の質問に共通して感じられたのは“みんな自分がわからない”ということです。ほとんど全ての質問が、自分というものの捉え難さに困惑している、という風に私には聞こえました。
「なぜこのような考え方をしてしまうのでしょう?」
「私がいつもああしてしまう理由は?」
「もっとこうすれば良いとわかっているのにできません」
深い悩みを含んだ発言に、講師は並々ならぬ洞察力で本質を見抜き、心理学や仏教の知恵でもって丁寧に答えていく。時にやさしく、時に内省を促す回答に、質問者のみならず、周囲の誰もが真摯に聞き入りました。
それは、他人の悩みにも関わらず、普遍性があり、自分に引き付けて考えていたためかもしれません。ああ、わかる。自分もそうだ。そんな風に共感してか、うなずきつつ話に聞き入る人があちこちに見られました。

私は戸口にほど近い前方に座っていたため、室内の様子が余すことなく見渡せました。そこで気づいたのが、質問した人に共通したある表情です。
最初はどこか不安げだったり、戸惑いを隠せない顔をした人たちが、講師とのやり取りのうちに、どんどん変わっていくようなのです。難しい内容の話に言い澱んだり、講師の思いがけない指摘に沈黙し考えをまとめる間にも、表情に翳りはありません。
「あなたにはこんなところがありますね」
「それはとても特別な体験ですよ」
「上手くいかなかったのはあなたの中に別の可能性があるからでは?」
講師のかける言葉のひとつひとつに、質問した人の表情が、文字通り輝き出します。講師の顔を見つめながらも、その人たちが自分の内面の奥深くを注視しているのが手に取るようにわかるのです。迷いが晴れつつある人特有の強い喜びが体からあふれている人もいました。あるひとつの言葉や洞察から、つい今しがたまでとはまるで変わっていく人を見るのは、驚きと感動がありました。

自分を見つける、理解する、というのはそれほどまでに素晴らしく、また得難い結果でもあります。たった一人で悩み抜いてきた人たちが、ようやく何らかのヒントや一筋の光明を得る。その際のその人たちの表情が晴れ晴れと明るければ明るいほど、辿ってきた苦悩が忍ばれます。
私たちは、みんな自分がわからないのです。色々なことがわからず、知らないからこそ、なんとかもっと深い部分まで理解したい。知ることはよく生きることに通ずると常日頃から考える私には、自分だけでなく誰しもがそうなのだと改めて気づかされた体験でした。
自分自身を知ることは他の何より難しい。だからこそ追求のしがいがあり、私たちは一生をかけてその回答を得るために生きるのかもしれません。
そのようなことを考えた晩秋の一日でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?