思い出すこと。振り返ること。背中を見ること。そして、後悔しないこと。
私が個人的に知る外国の人たちのうち、ことさらの日本好き、あるいは熱心に日本語を学ぶ人たちにそのきっかけや動機を尋ねてみると、かなりの高確率で返ってくる言葉があります。
マンガ、あるいは、アニメ。
ゲームや音楽、ファッション、禅などもあがるのですが、圧倒的に多いのはこのふたつです。
皆、私など及ばぬくらい多くの作品を鑑賞し、それらがいかに素晴らしく、自分に強い影響を与えているかを、熱を込めて語ってくれます。
そして、必ずといっていいほどうらやましがられるのが、日本人がマンガやアニメを母語で楽しめること、周り中にそれらが当然のごとくあふれている環境です。
皆、様々なマンガやアニメと共に育ち、それぞれが思い出の作品を持っている上、日々あらたに生まれる傑作にも簡単に触れられる。
友人知人ともその経験を分かち合い、楽しみごとを共有できる。
それがどれほどうらやましいことであるかを、切々と訴えられるのです。
自分のいる場所の特異さは外側からでないと見えないもので、そういった意見を聞いて初めて、日本はマンガやアニメ好きにとって特別に恵まれた国なのだ、ということに思い至りました。
とはいえ、そんな"うらやましい"環境に暮らしていても、私がそれを万全に活かしているかといえば、さほどでもない気がします。
もちろんマンガもアニメも好きなのですが、今は課金や購入をしてまで読んでいるマンガもなく、毎回放送を楽しみにしているアニメもまた然りです。
だからつい数日前、映画館に出向いてアニメ映画を鑑賞したのは、私にとってのレアケースでした。
その作品は押山清高監督の『ルックバック』で、二人の女性クリエイターを主人公に、彼女たちの少女時代から大人になるまでを描いた物語です。
原作は〈このマンガがすごい〉でも大賞を受賞した藤本タツキさんの作品で、藤本さんといえば『チェンソーマン』がとりわけ有名でしょうか。
私も手には取ったのですが、あまりに過激な世界観についてゆけず、途中で読むのを止めてしまった記憶があります。
友人からの強い推薦があったとはいえ、そんな方が描く"マンガでつながってゆく二人"の世界になじめるだろうか、と不安を感じつつ映画館のシートに座ったものの、物語が始まって聞こえた最初の一音から、すぐにその世界に引き込まれました。
田舎町に暮らす藤野と京本という、二人の女の子が"描く"という一点で結びつき、共に過ごしてゆく、きらめくような、やわらかで眩い光に満たされた時間。
そのはかない詩的さと力強さ。
それが突然絶たれ、全てが奪われてから起こる、世界の転調と時間の逆行。
叶ったもの、叶わなかったものの行く末。
それらが、人生における或る瞬間にしか成立しない、奇跡のような関係性を背景に描かれます。
けれどそこには、ものを作る、何かを生み出す人間特有のエゴと不完全さがあり、決して非の打ち所のない美しさだけに彩られているわけではありません。
その証拠として、二人で夢見、成功を掴みながらなお、捨てられない自我がぶつかり合い、共にしていた時間や関係、未来はばらばらにほどけていきます。
そうして"二人でいること"の無敵さを捨てた罰かのように、降って湧いたかのごとき、懲罰的かつ残酷な終わりが訪れます。
それでも続くのが生であり、描くこと、描き続けることは、業であり、諦観であり、執念であり、レクイエムでもあることが描写されます。
消えてしまった、死んでしまったものに対する。
ここに、回想する、振り向く、背中を見るといったタイトルの意味と、もうひとつ、ファーストシーンとラストシーンを貫く、隠された別の意味が浮かび上がってくるのです。
観終わってからこんなに混乱し、頭を抱えたくなった映画は久しぶりでした。
それはスクリーンの中の二人の姿に"当てられ""えぐられた"ような気がしたからに違いありません。
その存在を感知しながら直視できなかったもの、必死で目をそらそうとしてきたものを、眼前に突きつけられたような感覚に陥ったから、とも言えるでしょう。
まるで、心の奥底の秘密と、その痛みが前面に露見してしまったような。
これではあまりに要領を得ない書きぶりになりますが、物語の顛末に触れることなく語るとするなら、こんな表現をせざるを得ません。
私はこの映画をとても感覚的に鑑賞したため、こういった書き方以外は難しいということもあります。
「マンガなんか描くもんじゃない。読んでるだけの方がいい」
描くことの困難さゆえのセリフに対し
「それなら何のために描くの?」
こんな問いへの、語られなかった、物語の中にだけ存在する答え。
その切なさを何と名付ければ良いか、私は正解を出せないでいます。
一時間足らずの上映時間で描かれた、救いようなく美しい関係性と、創作のもたらす狂気と救済。
もやもやとわだかまって言葉にならない、それらに対する感情を、もっと的確に表現できれば良いのですが。
その表現力が自分にない無念さをかみしめつつ、やはり外国人の友人たちの言葉は本当だと思います。
この物語を同じ国、同じ時代を生きながら、自分のものとして享受できるのは、何と幸福なことなのかと。
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