見出し画像

自分軸の作り方#6 ~【不登校】直そうとしないで、わかろうとする~

もう20年以上前の話。

渡辺裕子さんという カウンセラーの講演会の録音したものを友達が聞かせてくれた。タイトルは「自分を愛するために」

冒頭で、「自分のことを100%愛してる人は、人のことも100%愛することができるんですよ、自分のことが50%嫌いなら、人のことも50%愛せない」っていう話があり、目から鱗が落ちた。これは心理学では「投影」と言われる現象で、自分の中にある自分の嫌な部分、許せない部分を他人の言動の中に見出すと、嫌悪感を抱いてしまう。

 他人に同じことをされても、気にならない人は気にならない。つまり、何か見たり、誰かに何かされたりして自分に湧き上がる感情の原因は、相手によるものではなく自分の内面にありますよ、という話だった。

この渡辺さんという人は、もともと、強迫神経症を患っていたが、カウンセラーと夫の献身的な対応で、絶対に寛解しないと医師からいわれていたのに、寛解してカウンセラーになって、講演活動をしているとのことだった。

この人の講演会の録音したテープをもう一度聞きたいと思って探したが見つけられず、たまたまAmazonで同じタイトルの古本が販売されていたので購入し、読み直してみたら、講演が文字起こしされたものだった。

心が洗われた。聞いた時の気持ちが、蘇った。

この人の言葉の中で、もう一つ印象に残った言葉がある。

「直そうとしないで、わかろうとする」

精神疾患患者に対する心構えを、そのように教えてくれた。当時、私は精神科病棟に勤務する看護師で、すごく心に響いたので、患者さんに接するときに「直そうとしないで、わかろうとする」の姿勢を心がけるようになった。

その後、訪問看護を経て、高齢者介護相談業務に長らく従事したが、その言葉はずっと、私が人に対するときの基本姿勢として大切にしてきた。

 でも、私には弱点があった。訪問看護をしていたころは、患者さんに丁寧に寄り添いたくて、残業ばかりしていた。後輩のフォローも、黙ってしていた。私が頑張ればいい話だから。なんでもポジティブに考えよう、と思って笑顔を心掛けていた。そして燃え尽きるまで働いてしまった。

 ハードな訪問看護を辞め、高齢者介護の相談業務に転職してから、最初はゆっくりできたが、年数が経つと責任のある仕事を任されるようになり、また頑張りすぎる。期待に応えようとして、結婚してからも妊娠中も、それまでと同じように働いた。

 職場の人間関係は良好で、私は癒し系と呼ばれていた。夫と結婚して、夫の両親と隣同士で暮らすようになり、姑ともうまくつきあっていた。保育園の夕方のお迎えはじいじとばあばにお任せして、いつも感謝の言葉を送っていた。孫たちがいい子だ、と姑は親戚や来客に、孫の行儀の良さを自慢していた。ちょっと感情の起伏の激しい姑だけど、私は仕事柄、高齢者と接することには慣れている。親戚からも、優しいお嫁さんと褒めてもらえるのが嬉しかった。

 私は自分のことを好きだと思っていたし、自己肯定感が高いと思っていた。でも、それは自己肯定感ではなかったと、今になってわかる。自分のこと以上に、誰かを大切にしようとしてしまう癖があり、疲弊して動けなくなるまで、自分の辛さに気がつかない。

 私は、人に褒めてもらいたかった。誰かに認めてもらうことで、自分の価値を保とうとしていて、自分の短所については認めたくなかったし、見ないようにしていたんだと思う。

 東京に転居して子供が不登校になったことは、姑には言えなかった。姑も、「元気か?」とは聞いてくるけれど、学校はどうかとか、友達はできたか、とか、詳しいことを聞くことはなく、自分の話をすることが主なので、不登校であることを伝えずに過ごすことができて、ほっとしていた。

 私は仕事ができる自分でいたかったし、優しい嫁であり、母でありたいと思っていた。でも、本当の私は、怠け癖があり、さほど優しくもなく、思いやりも深くなく、かなり適当な人間だ。興味のあることは集中するけど、家事が苦手で手抜きばかりしている。

 私は実家にいる頃は部屋の片づけができず、よく親に注意されていた。学校でも忘れ物と遅刻の常習犯で、提出物を出してないこともよくあった。多分、知能検査を受けたら発達に凹凸があり、発達障害と診断されただろうと思う。

 そんな自分を覆い隠すように、仕事を頑張り、いい人を演じていた。姑の言動にひっかることがあっても、「私が我慢したら済む話だから」と、誰にも愚痴をこぼさず、友達にも、家族にも「優しいお姑さんで感謝している」と伝えていた。でもほんとは、たぶん我慢していたんだと思う。快と不快の感覚が鈍いと自覚している。

 子供が不登校になり、なんでこんなことになるの、私は何のバチがあたってるの、と思ってよく泣いていたけれど、

 無意識に自分も子供たちも、好ましくない面を覆い隠して、理想的な人間に仕立て上げようとしていて苦しくなっていたんだと思う。

 息子たちは、言いたいことがあっても言わない子供に育った。それは自分をよく見せようとさしていい嫁・いい母を演じていた私を、子供たちも、真似ていたのではないだろうか。

 子供の自己肯定感を高めるために、何をしたらよいか、いろんな本を読んだけれど、良いところも、ダメなところも、まるごと認めて愛しましょうというのが共通する答えのようだ。それをやってるつもりが、できてなかったと、子供たちが気づかせてくれた。

 わたしには、けっこう愚痴っぽい、ネガティブ思考な面がある。意志の弱さもある。
理想の自分とは程遠いけれど
今の、せいいっぱい生きてる自分を受け入れることが必要なのだとわかってきた。

自分の本音を自分の心にちゃんと、聞くこと。

自分だけが我慢したらいいとかいう、自己犠牲的な考えも置いといて、

嫌なことは、嫌だと思ってもいいし、相手に伝えてもいい。

気に入らないことがあったときには 腹を立てていいし、悲しいときには泣いていい。
部屋もそこまできれいじゃなくて大丈夫。

今の自分を、100%愛せてるかと言われたら、まだまだ100%ではないけれど
これが自分だよねって、だんだん受け入れられるようになってきた。

そしたら何だか緊張が解けてきて、子供を見る目もフラットになった。
 渡辺さんの言ってた、自分を愛するのと同じように、人も愛するっていうことを、なんとなく理解できたように思う。

「自己肯定感」って、こういうことなんじゃないかな。

 子供たちにの不登校についても、
そっか、学校が苦手なんだね 
疲れるてから朝起きれないんだね、起きるの辛いんだね、
 部屋の片付けも 勉強もめんどくさいんだね…と穏やかに受け止められるようになってきた。


「直そうとしないで、わかろうとする。」

20年以上かけて、その言葉が言葉の表面だけじゃなくて、心の奥にじんわりと、染み込んできたような感じがする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?