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010 誰もが世界を変えることを考えるが、自分を変えることを考える人は誰もいない。【明石さんのスパイ飯大作戦ーモスクワ編


--誰もが世界を変えることを考えるが、自分を変えることを考える人は誰もいない。

  と、使い古して二股に分かれたほうきみたいな白髭の男が言った。一見不機嫌そうなもさもさの長い眉の奥の瞳はつぶらで愛嬌がある。にんにくの塊みたいな大きな鼻を持つその人はレフ・トルストイ。彼は小説家で、キエフで神学を学ぶ瀬沼格三郎と文通しているのだと言った。
 ニコラ通りに出版人やら小説家が仕事欲しさに集まる料理屋があると聞いてきた。わけではなく、たまたま腹が減ってたまたま入った店がそこだった。ただそれだけだったのだ。珍しくコルグーシキン料理を出すというから入ったら、大抵の卓子に乗っているのはお茶ばかり、しかも二人かけても一人前。大抵はみなりの綺麗ないかにも出版人と言ったいでたちの男がまずそうに啜っていた。
「まるきりとんちんかんでも誰も食い付かんよ。有名なのをちょこっと変えてくれたらいいんだ。ほら、あれ、”イワンのばか”ああ言うのでいいんだよ。よくあるロシア民話だろ。あれだって。できるかい?」
 向いの席の乾いたブーツの先が靴底から剥がれて犬みたいに口を開けた男が言った。
「ええ、できますよ。モローゾフさんの頼みとあらばいつだって。何ページですか」
「三百」
「じゃあ、百ページ五ルーブルで」
「そんなには払えんよ。四でどうだ」
「――いいですよ。いつまでにやればいいんです?」
「なるたけ早く欲しいんだが。一週間でどうだい」
「わかりました」
 ――そんなにはした金でそんなに早くできるかよ。いいや、十日後で。
 なんて勝手にその作家の心を代弁したくなった時だった。
「大事なのは題目だけだ。買ったら読まんわけにはいかんだろう。みんな金出して買ったものがくだらんと思いたくないから、内容がどうだって面白かったって言ってみせるんだ。悲しくないかい」
 カウンター横に幽霊か物乞いのように気配もなく座っていたトルストイが言ったのだ。悲しいのはあなたの独り言だろう。この男は死にたがっているのだと一発でわかった。けれど同時に誰よりも愛に生きたいと願っているようでもあった。かわいそうに、この人も仕事欲しさに朝から晩までここにいて、人生のむなしさを酒も飲めずに3コペイカの冷めた茶でごまかしているのだ。そう思っていたら、
「あんた、日本人だろう」
 恐ろしや。このじじいもスパイだろうか。大抵の外国人は支那も朝鮮も蒙古も一色た。ロシア自体もさまざまな民族の闘争のもとに成り立っているのだから気に留めていないのだろうが、こちらからしたら大分訳が違うのだ。が、この男は気づいた。
「そうですが」
「瀬沼格三郎を知ってるか」
 聞いた気もするが、知らぬ気もする。
「誰ですかその人は」
「キエフで神学を学んでる正教徒の男でね。文通をしているんだ。場所を変えて少し話さないか。ここは肉料理ばかりなんだ。我が家に招待してもいいかね。見たところ腹も空かせてるようだし。手製のクルピャンニクをご馳走しよう」
 初めて会ったた男を、ただ日本人に見えるというだけで自宅に案内するのもどうかと思うが――そしてそれに着いてゆくのもどうかと思うが。
「お願いします」
 聞いたことのない料理食べたさに、気づいたらそう答えていた。

 邸宅はハモヴニキにあるというのでついてゆくと、まるでヨーロッパのお菓子で作ったような、お伽噺に出てくる城のような建物があった。
「あれは――なんですか?」
「聖ニコラウス教会ですよ」
 そういう彼の顔がなんでか悲しい。
「さあ、日が暮れてしまわぬうちに。うちには水道が通っておらず明かりはろうそくだけですから、客人をもてなすのは早いほうがいい」
 早口で言う彼に手を引かれるようにぐんぐん通りを進んでゆくと、たどり着いたのは広い庭のある、橙色がかった木造の屋敷だった。背が高い木がすぐ横に生えていて細かな枝が屋根のほうに覆い被さるように広がっている。夏ならきっと木陰が気持ちいんだろうなと思った。
「妻は今夜帰りが遅くて」と言いながら彼は僕を客間に通すと、そっとろうそくに火をつけた。ピアノが大きな黒豹のように四つ足で立つ横のソファに腰かけた。
 今は姿が見えないが、たくさんの子供たちが無邪気にはしゃぐ姿が見える。台所のほうから
「食堂はテーブルが大きすぎてふたりでは淋しいから、ここで食事にしましょう」
 言ってちらちらとろうそくの明かりがゆれる小さな木の机に白い布を二枚敷き、洋盃を置く。その右中指に筆だこがある。
「わしは酒は呪いのようなものだと思うのだが、その呪いをこよなく愛するものが多いのも知っている。わしもそのひとりだったからな」
 そう言って彼は葡萄酒をそそいだ。
「おかまいなく」
 酒はあるに越したことはないが気をつかわせては申し訳ない。
「いいんだ、たまには。たまになら。新しい友情に、乾杯」
 かちんと洋盃を鳴らして一口、唇を赤くしめらすと彼は部屋の奥へと戻っていった。
 少しして牛乳のあたたまるやさしい甘いにおいがした。葡萄酒を飲みながら灯火がまぼろしに浮かぶのを見ていたら詩が書きたくなって上着にそのまま突っ込んできた紙切れと鉛筆を取り出す。先は丸まっていたがその方が酔うに任せてぽきりといかずにいいかもしれない。チーズの焦げた匂いがただよい始めたころ、
「これから二十分ほどで焼き上がるから」
 と、彼は葡萄酒片手にもどってきた。
「君も、なにか書くのかね?」
「いやいや、嗜む程度です。書くのは好きですけれどね」
「それが一番いいよ。食うに困って書くようになったら苦しいだけだから」
 と、洋琴の前に腰かけた。
 とーん、と日本ではカフェーくらいでしか聞かないような、耳に慣れない楽器の音が鼓膜をふるわす。ろうそくまでそれに合わせて揺れるようだ。いや、音というのは空気を振動させて鳴っているのだから実際にそうなのかもしれない。
 ちりちりと空を焼くろうそくの先をながめていると、トルストイはひとつ咳払いをした。見えない階段を昇り降りするように彼の指がぽろぽろ音を転がして、その影が銀幕にうつる幻燈のように踊った。
「多彩でいらっしゃる」
「趣味なんだ。勝手気ままにやってるだけさ。音楽家にはなれん」
 笑い、彼は自分が作ったのだという曲やら、知人の曲を三曲ほど聴かせてくれた。
 時に馬が草原を駆けるように激しく、時に春の小川のようにやさしく、彼は繊細に象牙の黒鍵と白鍵の上に指を走らせた。ぺんだこのついた指を。
 彼の手が止まったのは、壁時計がちょうど午後五時を知らせたころだった。もうここについてから一刻も経ったのだ。
「たいてい三曲くらい弾くと頃合いなんだ。さあ、昼時には遅く夕飯には早いが食事の時間だ」
 とぷとぷと、空になった自分と僕の洋盃に葡萄酒を注ぎ台所にはいってゆき、間も無くしてもどってきた。陶器でできた白いやや深めの楕円の皿、青い淵、その内側には蔦のような模様がつらなって、その上をなんとも香ばしい焦げたチーズが深い黄金の花を咲かしているようだ。あつあつで焼き色のついたチーズの割れ目からふつふつと呼吸を繰り返し、緑の野菜やきのこがたまらなそうに顔をのぞかせた。
「さあ、めしあがれ」
 ちょこんと右側に銀の匙をいざつかむ。
「熱いからな」
 忠告を耳半分で聞きながら匙を入れる。
 ――粥かな?
 そんな気がしながらすくうと、とろりとした牛乳のあまじょっぱいにおいがぐぅっと胃袋を掴んだ。
「いただきます」
 ふうふう吹きながら、おそるおそる口にはこぶ。
 うん、やっぱりカーシャだ。卵とバターも入って濃厚で寒いモスクワの夜、体の底からあたためた。しかし、バターの濃厚さがあっさりとして感じるのはなぜだろう。噛めば噛むほど、ふわっと風味がふくらんで鼻から抜けてゆく。なぜかなつかしい味がする。なにか知れない細かな歯ざわりが味に深みを与えていた。
 葡萄酒を一口。渋みがさらっと口のなかを整える、そのコントラストがまたよい。
 と、追いかけるようにもうひとつ、不思議に感じていた歯触りの正体を捉えた。
「これは、蕎麦かしらん」
「ご名答」
「大麦とか豆のしか食ったことがない」
「そうかい?蕎麦が一番人気だと思うが好みは色々だ。ただでさえロシアは多国籍だから」
 僕が言うとトルストイはうれしそうにわさわさひげを揺らした。
「冷めても温かくても美味いのがクルピャンニクだよ」
「この大杉みたいにもりっとしてる緑の野菜はなんだ?これがバターと牛乳をたっぷり吸ってうまいんだ」
「ブロッコリさ」
「へえ、美味い」
 つぶつぶの芽のひとつひとつがやわらかに煮込まれて簡単にほろほろくずれる。噛み締めるたびに広いがるきのこの出汁にあいまって胸のあたりをあたためた。
「中身はなんでもいいんだ。干しあんずでも、干し葡萄でも」
「日本でも蕎麦を食うが、たいていは蕎麦がきにしたり麺にしたり――粥でも食うが牛乳では炊かないなあ。それに葡萄酒と蕎麦が合うなんて知らなかった」
「瀬沼もそんなこと言っていた。実に面白い話だ」
「瀬沼某、キエフで神学を学んでいると言ったか」
「そうだ。ロシア正教の信者でな。アンナ・カレーニアも彼と彼の奥方が日本語訳してくれたんだ。だが私は戦争が嫌でねえ、そのせいでついこないだ教会から破門にされたところさ。なんだかねえ……瀬沼はよくよく諦めずにわしをなぐさめてくれる。彼はロシア正教にわし連れ戻したいみたいだが。どうかな、それはわからん。わしは暴力は好かん」
 気持ちだけならわかる。暴力に立ち向かうために戦うっていうのはどうしても本末転倒な気がするが――けれど黙っているだけでは世界は変わらないのだから。
「世界は、これからどう変わりますかね?」
「変わるというなら常に変わってるさ」
 髭をよけながら蕎麦の乳粥を口にはこび彼はいう。なんだか日本人みたいだ、と思いながら僕は葡萄酒を口にふくむ。
「世界は頼まれなくても勝手に変わるんだ。けれど、変わっていってるのも、変われるのも自分だけなんだ、本当は。そこに愛があればいい」
 乳粥はほどよく冷めていた。そのおかげできゅっと味が締まった気がする。ちょっと固まったバターが口でふたたび溶け出すのが味わい深い。
「いずれは、日本に帰るんだろう?」
 トルストイは古い友人との歓談の途中みたいに、ふと思いついたように言った。
「ええ、そうですね」
「そうしたら是非、トーキョーのカンダにあるニコライ堂に行ってみてくれ。瀬沼が孔雀色の屋根が美しいと自慢するんだ。君の信仰はなんだか知らんが、よければ」
「美しいものを感じる心に信仰は関係ないですよ。人間だけだ、そこに正義とか悪とかいうのは」
 僕は慣れない葡萄酒に酔うにまかせて言っただけだったが、
「ふ、」
 と彼は満足そうにちいさく笑った。

 レフ・トルストイ。
 僕が革命家や活動家に通じてると知ったら、杖でも振り回してこの屋敷から追い出すだろうか――自分のやっていることは信じているし誇りを持ちたいが、このひとときだけ友人となった彼を想うと切ない。誰もが信念を持ち、時にそれを砕き、打ちひしがれながら生きる。もう立ち上がれないとさえ思う時もあるが――、
「台所にまだクルピャンニクが残ってる。食うかい?」
 窓の外は濃い闇。
「ええ、いただきます」
 食って飲んで働きながら遊ぶ。
 このモットーを忘れなければ、僕は世界中を飛び回れる。
 美味いは世界を救うと信じている。
 そして、それを探すのも自分自身だ。

 さあ、明日は何して遊ぼうか。
 

明石元二郎:日露戦争時に活躍した諜報員。レーニンや007のモデルになったイギリス諜報員シドニーライリーと友達(?)。

レフ・トルストイ:ロシアの非暴力主義の作家。ガンジーは文通仲間。代表作『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』など。

*この小説は史実を元にした完全なるフィクションです。

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