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003 謝肉祭-マースレニッツァ-【明石さんの諜報飯大作戦】

 一九○三年二月。ロシアの寒さは最高潮だ。
 つい最近こちらにやってきたかと思ったら、あっという間に年が明けてしまった。家族は、妻の国子はどうしているだろうか。楽しく正月を迎えられただろうか。

「それじゃあ、また」
 店の外に出て、パリッとする寒さに手をこすりながら言った。
「また、連絡するわ」
 すらっと背の高く、いかにもロシア美人という感じの、切れ長の瞳に金の髪がさらさら揺れた。彼女はそう言ってコートの首元をきゅっと締めると、そのまま通りの向こうに消えて行った。
「明石さん、あの人すごく綺麗な人ですね。どこで 知り合ったんですか?すみに置けないなあ」
 すれ違いでやってきた上田くんが彼女の後ろ姿を見つめたまま言った。
「ありゃ男だ」俺が言うと
「え」上田くんは目を丸くして俺を見た。
 説明するのもややこしかったので「それじゃあ」とわき目もふらずにさっさと次の場所へ向かった。最後にちらっと振り向くと、上田くんはまだぽかんと店の前に立っていた。
 
 思ったよりも早く計画が進んでいる。これも上田くんのおかげだった。
 上田くんは若いが、彼の立場といい性格といい適材だった。自覚があるかは知らないが、十分にスパイ軍人としての素質があるように思えた。
「ふう」
十分ほど歩いたところで、ぽっとマッチで煙草に火を灯す。
今日は政治家たちの集まりや、密会を含めて数カ所に足を運んだ。そろそろ、情報収集だけでなく、本腰を入れて計画を実践に移す時がきたのだ。
準備はしすぎることはないと思うが、関わる人が増えれば情報漏洩だって考えられる。何をどこまで広げるか、手の引き際も肝心なのだ。
僕は固くなった気持ちをほぐすため、ぶらぶらと散策することにした。
街は冬を見送る祭り、謝肉祭で大騒ぎだ。広場の屋台もいつもより賑わい、大胆に重ねられたブリヌイの横にはイクラやキャビアに鮭の燻製、それにチーズやコケモモのジャム。祭りにはかかせないピローグや大きなプリャーニクもそこにはならんでいる。
いつもは飲み屋で小銭を稼いでいるようなジプシーたちも、今日は明るい太陽の下で心から音楽を演奏して楽しんでいるように見える。
それに合わせて人々は円になり踊る。男たちは相撲のように体をぶつけ合い、喧嘩を楽しんでいる。
もうすぐ復活祭が始まる。これは、粛清の期間前に、肉はもとより乳製品や酒を全部たいらげてしまおうという、昔ながらのスラヴ民族から伝わる祭りだと上田くんから聞いた。
一仕事終え腹ごしらえを、と、俺も酒を片手にイクラを乗せたブリヌイを買い、
「これからの新しい時代に」
ひとりで酒の入ったコップを小さくかかげた。

 むっちりとブリヌイを小さく食べやすいようにたたみ、そこにイクラを乗せて食べる。口の中にぷちぷちという食感がひろがる。初めて食べた時は、魚卵に小麦粉という不思議な組み合わせに戸惑ったが、いざ味わってみるとなかなかうまい。鮭の燻製も一口に頬張れば、最高の酒のつまみだ。薫香が鼻に抜けていく。
「うまか……」
 噛めば噛むほど広がってゆく旨み。飲み込むのがもったいない。
「他はー燻製とチーズ、チーズとコケモモのジャム、 そしてチーズとイクラ…なんか海苔巻きみたいだな。とりあえず一通り組み合わせを試してみるか」

 焼きたてのブリヌイは柔らかくもちもちとした食感がいい。ブリヌイにはそば粉を使ったもの、ライ麦を使ったものと何種類かあるようだった。
祭壇のようになったテーブルには、ブリヌイが幾重にも塔のように重ねられ積まれている。一枚の厚さは一ミリあるかないかだろうに、よくもまあこんなに積み上げられるものだと感心する。
屋台の前に置かれた木箱を椅子代わりにブリヌイを頬張っていると、立派に髭を蓄えた紳士が座った。地元のロシア人ではない。雰囲気が全然違う。旅行客だろうか…。
「こんにちわ」
最初は何語かわからなかった。よくよく聞くと、どこか訛りのあるロシア語のようだ。
「こんにちわ」
挨拶を交わすと、彼はにこっと微笑んでコップをおでこのあたりまで掲げた。皿には僕と同じく、ブリヌイにイクラやチーズが乗っている。彼は、それ以上ひとことも喋らずに、もくもくとブリヌイを口に運び、たまにぼうっと目の前の人々を眺めた。その横顔はやさしく、でもどこかひどく淋しそうであった。
「旅の人ですか?」
「ええ、そんなところです」
短く、でも物腰やわらかく彼は答えた。
「あなたは?」
まさか「諜報員だ」なんて言えるわけもなく「しがない留学生ですよ。ロシア語を勉強しています」とだけ言った。
「そうですか」
彼はにこっと微笑むと、今度は鮭の燻製をそのまま口に入れ、コップに口付けた。
「うん、おいしい。みんなで楽しみながら食べる食事は最高ですね。貧しくても、楽しみがあればつらくない」
彼は少し寂しそうに皿の料理を見つめた。そしてまた一口ブリヌイを食べると、嬉しそうにこちらに向き微笑んだ。
「ー実は、私は絵描きなんです」
酒で気持ちがほぐれたのか、ゆっくりとその紳士は話を始めた。
「この国で初め画家に会うのは初めてです」
 少し興味が出た。
「このお祭りも、もともとは私たちスラヴ民族のものなんですよ。それがこのロシアでも根付いているのはとても嬉しくて。私は絵を描くことしか能のない凡夫です。それでも、それだけはできる。有難い、神様からの授かりものですよ」
 手に持ったコップを見つめながら僕は、彼の話しを聞いていた。
「いつか、私の子孫たちにスラヴについて描いた大作を残したい。後世に受け継がれるような、ね。それで、今少しずつ、旅をして回っているのです。 知らないことは表現できないですから」
神妙な顔で彼は語ると「おお、あっちにあるピロシキがある。行ってもらってきましょう」
と言い、席を離れた。
 画家、か…。
そういえば、以前パリにいた時にものすごく良い絵を描く画家がいたことを思い出した。その人の絵はとても美しかった。美しいだけでなく、広がりと深み、それに優しさがある作品だった。
 そして、どこか淋しい…。
それが彼の絵の魅力であった。可能であればまた彼の作品を拝みたいものだと、こころから、思う。そんなことを思い出していると、髭の紳士が両手に ピロシキを持ち帰ってきた。
「おひとついかがですか?」
 彼はひとつ差し出した。
「私にも?」
「ええ、まだまだ酒が残っておいでだ」
 彼は笑った。
「ああ、ではお言葉に甘えて。ありがとう」
 しばらく無言でふたりでピロシキをかじる。ピローグー惣菜のパイ包みを小さく片手で食べやすくしたのがピロシキらしい。きのこに肉厚のキャベツと玉ねぎがはいっている。きのこはしっかりと歯ごたえがあり、まるで野菜のハンバーグを食べているようだ。パンのような表面はオーブンで焼き目がしっかりつき、ぱりっとしている。頬張ると、外側の生地の食感と中身のほくほく具合が楽しく、うまい。日本では米が中心で、こういった小麦粉をこねて焼いた料理はまだまだ家庭では少ない。ニュアンス的には饅頭みたいな感じなのかもしれない。それならわかる。
きのこのジューシーな歯ごたえに、玉ねぎとキャベツのシャキシャキした食感がたまらない。夢中で頬張り、中身がこぼれ落ちそうになるのを文字通り食い止めながら、味わった。これをボルシチに浸しながら食べたら絶対うまいだろうな、ときょろきょろとボルシチが売っている屋台がないかあたりを見渡す。
 ボルシチの屋台は見つけられなかったが、広場は町の人々の明るい表情でいっぱいだった。
まだまだこの世界は貧しいのだと、どこの国に行ってもそう感じる。しかしそれでもそれぞれの生活の中で精一杯人々は豊かに生きていた。
 時々、本当の豊かさについて考えさせられることがある。金、力、若さ……完璧な豊かさとは、一体なんだろうか……。生きていればそのうちに手に入るものなのだろうか。
目の前には子供達がブリヌイを頬張りながら走り回る姿が見えた。それに負けじと大人もはしゃぐ。
マースレニツァでは、老若男女、とにかく楽しむ。祝う。この祭りをどれくらい盛大にやったかどうかで、その年の運勢が決まるという言い伝えがある。
「あ、ほら、とうとう人形に火がつけられましたよ」
画家の声で顔を上げると、藁でできた人形にちょうど火がくべられるところだった。今日は、祭りの最終日だ。
この祭りのシンボルである『マースレニツァ人形』がぱちぱちと音を立てて燃え始めた。
隣の紳士に目を向けると、真剣な目でそれを見つめていた。何かを祈っているようでもあった。幸せそうに見える人々の裏側にある、生きることへの厳しさを見抜いているようでもある。
「互いを許し、認め合う日…」
彼はぼそっとつぶやく。
「祭りの最終日は、そういう日なんです」
俺の視線に気づき、何も言わないうちに彼は答えた。
「あなたは、只者ではない気がします。お名前は?」
 今更、この画家がただならぬ者な気がしてきてたずねた。
「ムッハ。アルフォンス・マリア・ムッハと言います。」
ムッハ。どこかで聞いた名前だと思った。どこだったかと考えをめぐらしていると。
「…あなた、留学生というのは嘘でしょう。あなたは、軍人だ。しかもとびきり有能な」
僕はどきりと、心臓を掴まれた気持ちになった。
「ふふふ、画家の観察眼はなんでも見抜くんですよ。…なんて!冗談です。ははは!」
驚いて何も言えないでいると「また、どこかで」と、彼は連絡先と名前をさらさらと紙に書いてよこし、そして席を立った。
“ Mucha“
そのサインを見て二度驚いた。それは以前パリにいた時に見た作品の画家と同じサインだった。あっちではフランス語で「ミュシャ」と発音されていたので気づかなかったが、そうだ。
俺は急いで彼が歩いて行った先を見つめたが、燃やされている藁人形の炎と煙でかき消され、もうその姿を見つけることはできなかった。
「まさか」
つぶやき、脱力したように腰を下ろす。
 本当に、本当に本物か?紙に穴が空くくらいじぃっと裏表に返しながら彼のサインを見た。
 記憶している彼の絵のサインと同じだ。
 世界には、たくさんの貧さと豊かさと、そして魔法があるのだと改めて思い知らされた。
プリャーニクをかじりつつ、久しぶりにやさしい幸福感で満たされながら家に着き、ミュシャの絵を思い出しながら階段を上がる。彼の絵はとても洗練されていてあたたかかった。

 部屋に戻るとドアを開けてすぐの床に手紙が落ちていた。昼間の女装諜報員からだった。今僕は、何年か前にスイスに亡命したという革命家のことを調べているのだ。彼は僕の計画に必要な人物だと、直感でそう思ったのだ。
 多分、もうじき会うことになるだろう。

 ふいに、ミュシャのやさしい笑顔を思い出した。多分、彼は僕と同じくらいの年齢だろう。彼は僕と同じように祖国のために自分のやるべきことをしようとしているのだ。
そう、すべては祖国のため。
 でも、実際僕は、なんのため戦うのだろう?
日本のため、家族のため…
 そう、そうの通りだ。そこが抜け落ちてはここにいる意味がなくなってしまう。

—でも……

 それだけでは安易すぎるだろうかと思いながら、それでも、願わずにはいられなかった。
「今日出会った、画家の故郷のために、少しでも…」
これから始まる、本当の戦いのために、その夜は早く床についた。明日の腹ごしらえのことを考えながら。


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