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『春の雪』三島由紀夫 著

店主おすすめの一冊と、個人的に気に入っているツボをご紹介。
今回は、三島由紀夫の『春の雪』(豊饒の海・第一巻)です。
全4巻からなる『豊饒の海』(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』)は三島由紀夫の遺作であり、こうして取り上げるのも畏れ多い大作ですが、勇気を出してご紹介いたします。

全巻を通して、一人の人物が早世を繰り返しながら別の人間に生まれ変わっていく様を、もう一人の人物の目を通して語られていくという「転生」をテーマにした長編小説『豊饒の海』。
『春の雪』はその第一巻として、若く美しい侯爵家の学生(清顕)が、同じく若く美しい由緒ある家系の女性(聡子)と禁じられた恋に落ち、その刹那的で繊細で悲劇的な結末へと向かっていくストーリーです。

わたしのツボは、なんといってもすべてが「美しい」ところ。
「美」は三島作品の特徴でもありますが、4部作の中でもこの『春の雪』はとくに美しさが際立っています。
美しいものを見事に美しく描き、さらには人の心の醜さ、傲慢さ、愚かさ、辛辣な皮肉まで、これでもかというほどに美しい言葉と比喩の嵐で綴られていて、「美」を見つめるということは、同時に「醜さ」をも見つめることなのだと思えてくるのです。
あまりにすべてが美しく描き出されるために、いったい何が「美」で「醜」なのか、そして何が「悪」なのかもわからなくなります。
唯一、聡子だけが一貫して芯の強い凛とした「美」として描かれているところが救いであり、憧れでもあります。

 冷たく見えるほどに高くはないが、象牙の雛のように整った形の鼻をした聡子の横顔は、ごくゆるやかな流し目のゆききにつれて、照り映えたり翳ったりした。ふつうは下品だと思われている流し目が、彼女の場合はかすかに遅くて、言葉の端が微笑へ流れ、微笑の端が流し目へ移るという風に、表情全体の優雅な流動のうちに包まれているので、見ている人に喜びを与えた。
 その幾分薄目な唇にも美しいふくらみが内に隠れ、笑うたびにあらわれる歯は、シャンデリヤの光りの余波を宿し、潤んだ口のなかが清らかにかがやくのを、細いなよやかな指の連なりが来て、いつも迅速に隠した。

三島由紀夫『春の雪』より

 これらすべてのことは、もちろん清顕の心を不断に傷つけていた。が、聡子がその身に引受けた公の不名誉に比べれば、自分が人の指弾も受けずにひそかに傷ついたとしても、いわば卑怯者の悩みでしかなかった。学友がこの事件のこと、聡子のことを口にするたびに、彼は、折しも冬の深まる遠山とおやまの雪が、空気のきわめて澄んだ朝、二階の教室の窓から望まれるのにも似て、聡子が遠く高く衆目の前に、その輝かしい潔白を黙って掲げている姿を見るように感じた。
 遠い絶顛ぜってんに輝く白は清顕の目だけに映り、清顕の心だけを射当てていた。彼女は、罪、不名誉、狂気を一身に引受けることによって、すでに潔められていた。そして自分は?

三島由紀夫『春の雪』より

それに対して、他の登場人物、とくに聡子の侍女である蓼科の描写には容赦がありません。

小菊を散らした小豆いろの掻巻をかぶってうずくまった姿には、どこか人間離れのした、黄泉路よみじを一度辿って引返して来た者の忌わしさが漂っていた。………(中略)……うつむいた蓼科の襟足が、あまり丹念に白く塗られ、髪も毛筋一つ乱れず梳られているのが、却って云おうようなく忌わしく見える。
……(中略)……
蓼科の顔はいつにもまして、京風の厚化粧の極みを示していた。唇の内側から京紅の茜が射し出て、皺を埋めた白粉の上をらそうとして更に塗り込めた白粉が、きのう嚥んだばかりの毒に荒らされた肌に馴染まず、化粧がいわば顔いちめんにい出た黴のように漂っていた。
……(中略)……
今、重ねた座布団の上から上げた蓼科の目は、白壁のような厚化粧の壁に二つ穿うがたれた黒い矢狭間やざまのように見える。その壁の内側の闇には過去が立ちこめ、矢は闇の奥から、明るい外光に身をさらしているこちらを狙っているのである。

三島由紀夫『春の雪』より

聡子の声については「甘くて張りのある声音こわね」と表現しておいて、蓼科については「葱の白い根を思わせる声音」と書く三島由紀夫。
「葱の白い根」って。
ちなみに聡子も蓼科も『春の雪』以外の別の巻にも再登場するのですが、他にも特徴的な2名の女性が同様に2巻にわたって登場しており、この4名の女性陣を思い描きながら、三島由紀夫の女性観についても思いを馳せてしまいます。

また、清顕の自己中心的で自己防衛的な想像力も、鋭くバッサリと描かれます。

貧しい想像力の持ち主は、現実の事象から素直に自分の判断の糧を引出すものであるが、却って想像力のゆたかな人ほど、そこにたちまち想像の城を築いて立てこもり、窓という窓を閉めてしまうようになる傾きを、清顕も亦持っていた。

三島由紀夫『春の雪』より

己を守るための想像力が豊かな人はドキリとするであろうこの一文。
歪んでねじくれた心の動きまでも、恐ろしく美しく鋭く描く三島由紀夫の凄さ。
惹かれる表現に付箋を貼る作業をしたところ、本が付箋だらけになってしまいました。

細やかに、壮麗で絢爛に修飾される様々な情景は、幾重にも華美な言葉で重ねられていながらも、なんの抵抗もなく読み進めてしまい、そして実際に見ているかのようにありありと目に浮かびます。
どんなに有名な文豪の作品でも、どうしてもすんなり頭に入ってこない苦手な文章もありますが、三島由紀夫の文章はわたしにはとても読みやすく、そして心地よく酔わされます。

思えば初めて三島由紀夫に興味を持ったのは、高校時代でした。
自決した後の彼の首が掲載された古い週刊誌を見て、大変衝撃を受けました。と同時に、それがきっかけで彼の作品を読むようになりました。
短編も戯曲もいいけれど、やはり自決直前に最終巻『天人五衰』が出稿された『豊饒の海』、それも第一巻の『春の雪』をまずおすすめしたいです。
なぜならこの4部作は巻を経るにつれて、登場人物の老いとともに物語全体が暗く重くなっていくからです。
とはいえ、わたしが付けた付箋の数は物語が進む毎に増えていき、最終巻『天人五衰』が最多でした。

20代前半に初めて読んで心打たれた『豊饒の海』。
今回再読して、若い頃にはわからなかったこと、感じなかったこと、忘れていたことがあまりに多く、それだけに十分楽しめました。

秋は三島由紀夫という偉大な作家が、センセーショナルに旅立った季節。
長い長い夜に、端正で緻密に計算され尽くした、時を超えて広がる美しくも儚い、「夢」と「転生」の世界に浸ってみるのはいかがでしょうか。

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