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【神戸】平清盛も湯治したといわれる「湊山温泉」

日本の歴史を語る上で欠かすことができないキーワードがあるとすれば、それはきっと「武家政権」だと思う。

武家政権は、平安時代(794年~1185年)末期に、貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的台頭が起こり、武家が独自の権力と組織をもって行なった政治的支配が始まりである。

日本で初めて武家政権ができあがったのは平清盛たいらのきよもりによる平氏へいし政権だ。

しかし、平氏政権は武家の政権ではあったが、独自の武士階級としての権力と組織をもたず瓦解したため、次の源頼朝みなもとのよりともによる鎌倉幕府の成立をもって正式な武家政権の始まりとしている。

それから鎌倉幕府を経て、足利尊氏あしかがたかうじ室町幕府、織田信長と豊臣秀吉による織豊しょくほう政権、そして徳川家康の江戸幕府の終末までの約700年間がこれにあたる。

この700年の内、平氏政権、織豊しょくほう政権を除き、征夷大将軍せいいたいしょうぐんが幕府を組織していった。


源頼朝像(Wikipedia)

日本で初めて征夷大将軍となったのは、平氏を滅ぼした源頼朝みなもとのよりともである。

1185年(文治元年)、頼朝よりともは貴族の影響が強い京都ではなく、鎌倉に幕府を開府することで、初めての(幕府をもった)武家政権が確立した。



源平合戦
〜保元の乱と平治の乱〜

頼朝は、1147年5月9日、愛知県名古屋市の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現在の誓願寺せいがんじ)にて生まれた。

幼名を「鬼武者」と言った。

もともと「みなもと」姓は天皇の子供達が皇族を離れるときに下賜かし(天皇からいただくこと)された姓で、「たいら」姓も同じで、どちらもルーツをたどれば皇族である。

頼朝も最初から武士だったわけではなく、少年時代は宮中に仕え、後白河ごしらかわ天皇の皇子で・守仁もりひと親王(後の二条天皇)の「蔵人くろうど」(秘書)をしていた。


御白河天皇(Wikipedia)

1156年(保元元年)、鳥羽法皇とばほうおうが崩御すると、朝廷では崇徳すとく上皇とその弟、後白河ごしらかわ天皇が皇位継承をめぐって対立していた。

後白河ごしらかわ天皇は、この朝廷での内部抗争を解決するために、頼朝の父である源義朝みなもとのよしとも平清盛たいらのきよもりといった武士の力を頼り、見事勝利した。(保元の乱)

そのため、この保元の乱以降、朝廷内で武士の立場は大きく増していくことになる。


二条天皇(Wikipedia)

朝廷は、保元の乱のあった保元元年(1156年)の9月に後白河天皇が「保元新制」と呼ばれる新制を発令した。

この新たな国政改革を立案・推進したのは、信西しんぜいと呼ばれる後白河天皇の側近だった。

後白河天皇に信頼された信西だったが、同時にかつて後白河天皇に重宝された院近臣達からは反発を買い恨まれるようになる。

また後白河天皇は、皇子である守仁もりひと親王の中継ぎとして即位していたため、1158年(保元3年)に守人親王(改め二条天皇)に譲位し、後白河上皇となった。

しかし、なんとこの譲位の手助けをしたのが、後白河天皇の側近であるはずの信西だった。

この出来事から後白河上皇は信西を遠ざけ、代わりに藤原信頼ふじわらののぶよりを重用するようになる。


平清盛(Wikipedia)

一方、平清盛は、娘を信西の息子に嫁がせる約束をしていたが、藤原信頼とも親交を結んでおり、各有力者と一定の距離で交流していたことから政治的には中立を保っていた。

こうして朝廷内部は、信西派二条天皇派後白河上皇派平氏一門というような派閥が形成されたのだった。

なかでも二条天皇派と後白河上皇派は激しく対立していたが、権力を持ち過ぎた信西を追い落とすという点では意見が一致していた。


頼朝の父・源義朝(Wikipedia)

そんな中、1159年(平治元年)の12月9日未明、ついに「平治の乱」が起きる。

信西派を一掃するため、後白河上皇の御所「三条殿」が藤原信頼ふじわらののぶよりと、その命令に従っていた源義朝みなもとのよしともによって襲撃された。

そして藤原信頼は、内裏に二条天皇と後白河上皇を軟禁して政権を掌握しようとしたのだった。

当の信西は事前に察知しており、すでに大和国(現在の奈良県)へ逃亡を図ったあとだった。

しかし、翌日には信西の息子や、親族は捕縛され、逃走した信西本人も12月14日には発見され、その場で首をはねられている。


平治物語絵巻(Wikipedia)

このとき平清盛は、息子・平重盛ら親族を連れて熊野参詣に向かっている途中で、京都を留守にしていた。

紀伊国(現在の和歌山県)でクーデターの急報を受けた平清盛は、源義朝からの襲撃をおそれて九州や四国に落ち延びることを思い立つが、紀伊国の豪族の協力などを受け、京都へ駆けつけた。

そして、平清盛は、密かに二条天皇派と連携し、内裏の御所から二条天皇を脱出させ、六波羅ろくはら(現在の京都市東山区鴨川沿い)にある平清盛邸に匿った。

このことを知らされた後白河上皇も、院近臣らを残して御所を脱出し、「仁和寺にんなじ」(現在の京都市右京区)へ逃ることにした。


平治物語絵巻(Wikipedia)

これによって藤原信頼や源義朝は、二条天皇と後白河上皇を失ってしまい、藤原信頼達は朝敵となってしまった。

そして遂には、二条天皇によって平清盛に藤原信頼らの追討命令が下される。

その後、藤原信頼側からは賊軍となることをおそれ離反者が続出。

逆転を賭けて平清盛邸に向かった源義朝の軍勢はなんとたったの数十騎という有様だった。

当然ながら平清盛に惨敗、藤原信頼は捕縛され三条殿襲撃の首謀者として処刑された。

源義朝も逃走中の尾張国(現在の愛知県西部)で配下に裏切られ殺害された。

そして、初陣したばかりの少年だった頼朝よりともは、処刑を免れるも、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)に流刑されることになったのだった。

これが20数年後に平氏滅亡のきっかっけとなるとは、この時誰も知る由はない。

源頼朝みなもとのよりとも、この時13歳。

つづく


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【兵庫】
平清盛も湯治した
湊山みなとやま温泉」

湊山温泉HPより引用

「保元の乱」後、平清盛は播磨はりま守に任じられている。

播磨国はりまのくにとは現在の兵庫県南西部を指す。

また、後に出家、隠居の身となった平清盛は福原(現在の兵庫県神戸市)に別荘を構え、本格的に日宋貿易に乗り出した。

それほど神戸市は平清盛にとって由縁がある地だった。


神戸市にある湊山みなとやま温泉は平清盛が入浴したと伝説が残る温泉のひとつだ。

かつて「神戸の奥座敷」と呼ばれていた兵庫区の山側エリアにあるこの温泉は、平安時代には存在し、すぐ近くにあった福原京の公家や平清盛などの武士も入浴したと言う。

800年以上もこんこんと涌き続け、100%源泉かけ流しの5種類の浴槽にて、心ゆくまで温泉情緒を堪能したい。


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