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Cadd9 #34「失くしたものを取り戻すまで」


ミナミとの電話のあと、樹はラジオを枕元に置いて小さな音量で流しながら、布団に寝転がって本を読んだ。ラジオは街を離れる日にテルジが餞別がわりにくれたものだ。最初は彼が年がら年中履いている長靴を渡されそうになったが、色々と理由をつけてなんとかそれは回避し、代わりにラジオを譲り受けた。長靴もラジオも、テルジにとっては大切な宝物なのだろうが、彼は何の惜しげもなくそれを与えようとしてくれた。



たまたま放送していたラジオ番組の終わりに、中島みゆきの「時刻表」が流れた。樹は本を胸の上に置いて、その曲に耳を傾けた。やがて曲が終わると、番組はニュースに変わった。それはとある街のとある森林で、若い男女ふたりの遺体が発見されたという内容だった。遺体に目立った外傷はないが男女とも裸で持ち物は一切なく、身元も判明していない。警察は事件と事故の両面で捜査を進め死因究明と身元確認に急いでいる。そのあともニュースは続いた。政治家の汚職事件と教師による女児誘拐未遂、公園の公衆トイレで見つかった臍の緒がついたままの新生児。


樹はラジオの電源を切り、再び本を読む気にもなれず、暗い天井をじっと見上げていた。そして複雑に交差する幾人もの人生に思いを馳せた。はじめて聞いたはずの「時刻表」の歌詞が頭にこびりついて離れなかった。人の流れの中で、そっと時刻表を見上げる。


そろそろ寝ようかと思いはじめたとき、部屋の襖が開いた。樹はびっくりして肘をついて置き上がった。隙間から沙耶が顔をのぞかせていた。


「どうした?」


樹と沙耶の部屋は襖を隔てて繋がっていた。眠る前に本や雑誌を読んだり、窓を開けてイカ釣り船の明かりを眺めていたりすると、よく前触れもなく襖が開いて沙耶がひょっこりと顔を出すことがあった。見られて困ることはしていないが、樹はそのたびに心臓が止まりそうになった。

「一緒に寝てもいい?」

と、沙耶は言った。

「いいよ」

端に寄ると、沙耶は布団の空いたスペースにするりと入りこみ、樹と向き合うようにして横たわった。


樹の身体は十六歳にしては大きく、沙耶の身体は十歳にしては小さかった。それでも沙耶は以前より成長してずっと少女らしくなっていた。樹は枕に肘をついて、その丸みのある頬に落ちた髪の毛を指ですくって耳にかけた。沙耶は両手を顔の前で軽く握ってゆっくりと瞬きをしている。ふせられたまぶたとその奥にある瞳に浮かんだ小さな光には、すでに彼女の数年分の人生の輝きが溶かし込まれていた。樹は彼女の上に今も流れている限りある時間を、胸の奥が痛むほど大切に思わずにいられなかった。


ずっと似ていないと思っていたが、俺たちは眉と目尻の形が似ているかもしれない。唇は沙耶のほうが厚みがある。睫毛も沙耶のほうが長い。そんなことを考えながら沙耶の顔をまじまじと見つめていた。沙耶は嫌がる様子もなくただ静かに、どこを見ているとも言えない目で、猫のようにささやかな呼吸をくりかえしていた。


「沙耶」

「なあに」

「母さんの顔を覚えてるか」

「覚えてない。思い出せないの」


沙耶は目を閉じた。血管が透き通った白いまぶたが、かすかにふるえていた。


「思い出そうとするけど、うまく浮かんでこないの。でも、いつも悲しそうだったね」

「そうだな。俺も同じだよ」

「わけもわからないうちに死んじゃったし、お母さんのことを思い出すとき、どんな気持ちになればいいのかわからないの。写真もないし、思い出もない。お母さんのこと、ちょっとずつ忘れていくみたい。お母さんのことを思うと、いつもすごく寂しいの。穴の中を風がびゅうびゅう吹き抜けていく感じ。でもどうして寂しいのかもわからないの。うまく思い出せないのにすごく懐かしくて、どうしたらいいんだろうっていつも思ってる」

「子豚のレースのことは覚えてないか?」

「なに、それ」

「母さんと、俺と沙耶で見たことがあるんだ。それも覚えてない?」

「覚えてない。話して」

「いいよ。でも、また今度な。今日は遅いからもう寝よう」


沙耶は口をすぼめて不満そうな顔をしたが、掛け布団を肩のところまでひっぱってやると、そこに口もとをうずめた。


「でも、お父さんのことは覚えてるの。全部、はっきりと」


くぐもった声で沙耶はそう言った。樹は閉じかけていたまぶたを開いた。氷が軋むような音が、耳の奥で聞こえたような気がした。


「親父のこと、沙耶はどう思う?」

「すごく怖いわ。でも、会いたいとも思うの。お兄ちゃんは?」


そう言ったあとに、沙耶は退屈そうに小さなあくびをした。涙がにじんだ瞳で樹を見上げる。樹は目を逸らしてわからないと言った。


「あたしはね、本当は、お父さんはとても可哀想な人だと思うの。そのことを思うと、涙が出てしまうくらい、可哀想に思うわ。本当は、お父さんにはあたしたちが必要なのよ。誰かがそばにいてあげなくちゃ、あの人はどんどん、自分の中の冷たい部分に飲み込まれてしまうような、そんな気がするの」

「沙耶」

「なあに」

「親父のことは、もう忘れろ」


沙耶がこちらをじっと見つめていることはわかっていたが、樹は目を逸らしたまま言った。


「親父に何かを与えても、あいつは何も返しちゃくれない。母さんだってそうだったじゃないか。与え尽くして、自分がなくなってしまったんだ。お前には、そうなってほしくないよ」

「わかるわ。だからあたしもお父さんが怖いのよ。でも、お父さんも自分のことを怖がってるんだと思うわ」

「沙耶、お前は優しすぎるよ。そんなふうに育ったのは、きっと百合美さんと宏一さんのおかげだな」


樹は沙耶を見て微笑んだあと、再び目線を落として言った。


「俺も今はまだ、親父のことを怖がってるのかもしれない。ここに来てから、どこかで親父と出会うんじゃないかって、本当はしょっちゅう不安になるんだ。でも、俺はいつか親父よりもずっと強い男になって、いつか親父を乗り越える。そうやって、すべてをもとに戻すんだ。失くしたものを取り戻すまで、俺は自分に負けない。約束する。だから、もう親父のことは忘れろ。あんなやついなくたって、俺たちはまた前みたいに幸せになれる。もう、そのほうがいいんだよ」


沙耶は黙っていた。よくわからないといった顔をしていた。


「そんな約束はどうでもいいの。あたしは今、こうしてるだけで幸せなんだもの。もう私を置いて遠くに行ったりしないで。約束して」

「ああ。約束する」


差し出された小指に、樹が小指をひっかけると、沙耶は笑った。


「明日の夜は遊んでくれる?」

「何をしたい?」

「トランプ。それとオセロ」

「いいよ」


小指をほどき、どちらからともなくふたりは目を閉じた。何度か目を覚ましそうになったが、夢は見なかった。隣で眠る沙耶の気配が、樹を安心させてくれたのだ。


俺のほうが沙耶に抱かれ、守られているみたいだ。時折訪れる浅い眠りの中で、心地よさに身を委ねながら、樹はそう思った。



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