見出し画像

生きているからこそ

障害を持つに至った経緯と今について、詳細を書き残しておこうと思う。

今朝7:00前。目が覚めて、まだ意識がぼんやりする中、宇多田ヒカルのElectricityを聴いた。なぜかこの歌を聴くと無性に泣きそうになる。

その状態がきっかけになってか、ここ最近のことを連想している自分がいた。暖かい関わりをしてくれる人たちを想い出し、じんわりと温かい気持ちになった。今日も育休中の元同僚、その他の仲のいい元同僚たちとのランチの予定がある。

ふと、といっても頻回ではあるが、「あの時死んでいたら今はない」という想いが浮かんだ。

カーテンの隙間をかいくぐる光によって、微かに青や緑がかったようにもみえる薄暗い部屋の中。1時間に数本しかない田舎の列車が走るかのような速度で、その思考が私の脳裏を通過した。

Electricityのメロディが涙を誘発した。


あの時死んでいたら、あのときから感じてきたことの全てや、体験してきたことの全て、出会ってきた人たちとの関わりの全てがなかったのはもちろん、それらだけでなく、痛みも悲しみも孤独も一切感じれなかったのかと思うと、全てが深く愛おしく感じれてしまう。

私だけの魔法の言葉だ。

私は涙を我慢しない。恥ずかしいことでも、弱さの象徴でもない。泣いたってしょうがないという人がいるかもしれないが、どうこうしたいがために泣く訳でもないし、我慢してたってしょうがないじゃんって思う。身体がそうしたいということはさせてあげるようにしている。


前置きが長くなった。

こういった考えを持つに至った経緯をまとめようと思う。

私は高校3年生の10月に交通事故にあった。高校で20:00まで受験勉強をし、学校が閉まるということで塾に学習場所を変えようとした。育った場所はドがいくつかついてもよいくらいの田舎であり、高校まで距離がある人は原付バイクでの登校が許されていた。私もそれが許された生徒のひとりであり、塾までバイクで向かった。高校を出てすぐ近くのLAWSONが明るいなと思った。

気付いたら1週間ほど経っていて、病院のベッドの上だった。左足は真っ白な包帯で巻かれており感覚がなかった。傷口からの浸出液が滲んでいる部分もあった。隣に母がいて訊ねた。「おれ何したの?」

みたことのない、安堵と悲愴の感情が母の顔にみてとれた。


私はどうやら交差点で交通事故にあったらしい。その出来事の記憶は微塵もない。

交通事故から病院に運ばれて入院し1週間ほど、意識が朦朧としていた期間を思い返すと断片的にだが覚えていることがあった。

まず造影剤のための注射針を刺され、MRIに入れられたこと、そのとき身体が燃えるように熱かったこと、数日幻覚をみていたこと(内容も覚えてはいる)、食べたいものがあり用意してもらったが一切食べられなかったこと、手術のために医師や看護師が自分の周りを囲んでいたこと。病室での酸素マスクが苦しかったこと。それくらいだが、母曰く色んなことを言葉に出していたらしい。

事故時、そして(たぶんだが)その後2回の手術を1週間のうちに受け、そうこうして体温が下がり、意識がはっきりしたのがその後だった。
私の左足は、すごく雑に言うと、ぐちゃぐちゃだった。右足の甲から血管を移植したらしく、右足も傷んだ。

生き地獄のような日々が始まった。

毎日点滴針を変えるための注射、血液検査のための注射と、少なくとも2回の注射が毎日続いた。私は注射が大嫌いなため、緊張や恐怖で血管が見えにくくなってしまうことから1回できめてもらえることが少なかった。腕は青黒くなった。点滴やその他の液体の薬が複数必要だったようだが、管が沢山繋がれていて煩わしかった。

定期的に足の処置も行われた。
生きた人間から発せられる臭いなのかと思うくらい、腐っているのではないかと思うくらい、処置の時はひどい臭いが鼻腔を刺激した。はじめの頃は現実を受け止められず、足を見れなかった。しばらくしてから見た時には、真っ白な腱が見えていた。皮に覆われていない肉も鮮やかな色だった。処置中の痛みや気持ち悪さには耐え難く、注射注射の毎日毎日で精神は摩耗した。またすぐ明日が来る、またすぐ明日が来る。と、明日が来るのが怖かった。

このときだ。頑張れと言われても何を頑張れというのか、と憤りと悲しみをブレンドした感情を味わったのは。そして、生きていく中では頑張らずともよく、ただ耐えるだけでいいという瞬間もあるということに気付いたのは。だから私は途中からただ耐えるだけの日々を送った。歯を食いしばることなど、習い事や部活の野球ででもしたことがなかった。

耐えられないこともあった。

親が24時間つかずともよい入院生活になったあと、片道1時間半ほどをかけて仕事終わりに病院まで来てくれる親に対し、こなくていいといってるのになんでくるのかと感情的に当たり散らし、自己嫌悪に陥ることを繰り返してしまった。どんな気持ちでこの数分のために疲れている仕事帰りに車を走らせて来ていたのか、そしてまたどんな気持ちで1時間半の帰り道を運転して帰るのだろうか。事故に合わないで帰れるだろうか、夜はしっかり眠れるだろうか、明日の仕事には支障はないだろうか。

そんなことを考えていたのに、当時は気持ちを上手く言葉に出来なかった。こなくていいからということしか伝えられなかった。

申し訳なさと心配から、帰宅した頃に電話をかけて泣きながら謝るということを何回繰り返しただろう。思い返している今も申し訳なさで辛くなる。愛がなければそれでも来続けることなどできやしないとこの歳になって思う。今の私は愛されてきたと一切の迷いなく言える。


こんな日々をすぐに受け入れることはできなかった。

本当に、悪い夢を見続けているのではないかと疑った。寝て起きれば自宅のベッドの上で、朝5時から数学を学ぶための用意がそこにあるのではないかと信じれそうだった。

しかしそんな日々は訪れなかった。それでも病院生活がゆめうつつの状態が続いた。もうこれが現実なのだと受け止めだしていたのはいつからだったか。それはもう覚えていない。

ただ、ベッドからまだまともに動けなかった時、夜の食事が運ばれてきて食べようと思ったそのすぐ、箸を床に落としてしまったことがあり、自分の力ではその箸すら拾うことができないことに強い情けなさを感じてしまい、涙をこらえることができなかった。そのときの食事は食べたかどうか定かではない。こころの痛みはリアルだった。


いつ退院できるのかもわからない日々というのは実はかなり苦しかった。いつまでこの日々を耐えるのか。そしていつまた自宅での生活を送れるようになるのか。いつ家族のご飯が食べられるのか。いつ湯船につかれるのか。いつ友人たちと会えるのか。いつ包帯など巻かずに寝具に足を忍ばせ眠ることができるのか。いつ歩けるようになるのかならないのか。また、手術もいつまで繰り返すのかもわからず、その言葉が医師からも親からも出ないことを祈る日々だった。祈りとは何なのか。願いと何が違うのか。それを考え出したのはこのときである。結局2年の間で10回くらい手術して今に至る。

松葉杖で歩けるようになった時は、自分がとても身長が高くなったような錯覚をした。歩き出して感動した。こんなに自由なのかと。その後、本当に自立して歩けるようになったときは、もうどこまでも行けそうな気がした。


高校卒業後、結局1年間は手術やリハビリがあったため浪人生活を選択せざるを得なかった。

そして卒業から数日後。震災が起こった。

その事の詳述は控えるが、私は不謹慎にもそのことがきっかけとなって前を向いて歩けるようになった。

というよりも前を向かねばならないと思った。

自分よりも理不尽な事態に襲われた多くの人々がいる。命を落とした人たちがいる。最愛の人を、子どもを、家族を、友人をなくした人たちがいる。

死んだら何もかもが終わり。

それを悟った。

嬉しいことも楽しいことも安らぎも痛みも苦しみも悲しみも、もう二度と味わうことがなくなる。目を瞑りたいことを瞑る目もない。災いの元になる口もない。毒を吐ける舌もない。好きも嫌いもない。

私は交通事故のあのとき、何かが違っていたら何もかもが終わっていたんだろう。

そう思ったらあらゆることが愛おしく感じられた。
 
そして障害なんて大したことがないとも思えた。実際に今もそう思っている。事実そうであると臨床心理学を学び、数々の人達と出会うことで思えるようになっていった。今ではむしろ身体、こころに障害を持たない人の方が少ないのではないか、と思っている。

というより断言してもいいと思っている。



全てのことは「生きているからこそ」。

いいことも悪いことも、同じくらい起きればいい。とあるゲームのキャラクターがそう言っていた。私も今は大体そう思って生きている。そのゲームはすごく哲学的な言葉が多くて今になって意味を知ることがあったりする。

宇多田ヒカルも歌っている。感じたくないことも感じなきゃ何も感じられなくなるから。と。

他者を支えられる人になるために。
そして表現の糧にするために。

私はあらゆることを甘受したい。そこに至るまでのプロセスはあれど。味わい、濾過し、笑みに変える。

自身のあらゆることを、人が笑えなくても私は笑って人に話そう。
その方がかっこいいから。言葉にするとダサいけど。


時間を開けて綴ったため、締め方がわからなくなってしまった。

とにかく、何もかもは生きているからこそ。
私は私の感じることを大切に、愛し、生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?