読書感想文【ネガティヴ・ケイパビリティで生きる】を8割読んで、ケンカを売る

ネガティヴ・ケイパビリティで生きる
答えを急がず立ち止まる力

谷川嘉浩/朱喜哲/杉谷和哉   著

を約8割まで読んで、本を閉じた。
完読せずに、感想文を書く。
「完読しなければ、感想文を書いてはいけない」なんて決まりは無いはずだ。
(タイトル通り、ケンカ腰。)


◼️完読しなかった理由

この著者3名が、ネガティヴ・ケイパビリティの当事者とは思えなかったからだ。

一般的に、当事者でない者が問題を語る時、見晴らしのよい高台から俯瞰するように、その構造をよく把握できる。
しかし、問題の核心に近づき、解決策を見出だせるのは、問題に直面する当事者だけだ。
そして、苦悩や苦痛を引き受けるのも。

何の葛藤も責任も伴わない、安全圏からの言葉に、どんな魅力と説得力があるのか。


◼️ネガティヴ・ケイパビリティの当事者

ケイパビリティとは、「能力」「才能」という意味であるため、ネガティヴ・ケイパビリティという言葉に、本来、人間性は含まれていない。しかし、人間が持つ能力である以上、その能力と人間性を切り離して考えるべきではない。

ネガティヴ・ケイパビリティの能力を持つ者(ネガティヴ・ケイパビリティの当事者)とは一体どんな存在だろう。

「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは不可解な物事、問題に直面したとき、簡単に解決したり安易に納得したりしない能力のこと。わからなさを受け入れ、揺れながら考え続ける力だ。

ネガティヴ・ケイパビリティで生きる

この定義を読む限り、ネガティヴ・ケイパビリティの当事者は、かなり不安定で、居心地の悪い状況にとどまることになる。
そして、これは精神的なものに限定されない。【状況を瞬時に把握→理解→対処→改善】することが評価される社会において、ネガティヴ・ケイパビリティを持つ者は、経済的な成功から遠ざかる。また、自信を伴う他者を前に、確信を持たない思考は優柔不断な
弱者そのものだ。


◼️ネガティヴ・ケイパビリティを語るのは、非当事者

ネガティヴ・ケイパビリティを持つ者は、ネガティヴ・ケイパビリティという言葉を使わない。ネガティヴ・ケイパビリティの当事者にとって、問題を喉に詰まらせたり、咀嚼しながら生きることは、無意識でありデフォルトだ。無意識でデフォルトなものに名前など付けない。

だから、ネガティヴ・ケイパビリティという言葉を使い、今それを語っているのは、ネガティヴ・ケイパビリティの非当事者に他ならない。


◼️ネガティヴ・ケイパビリティを知る

【ネガティヴ・ケイパビリティで生きる】ことの理不尽さを、明確に認識したのは、

生き延びるための女性史
遊廓に響く〈声〉をたどって

山家悠平  著

を読んでからだ。

この本は、遊廓を生きた女性たちについて書かれたものだが、著者である山家悠平氏の半生も書かれている。

社会の必要な一部として組み込まれながら、差別の対象として世間から締め出される遊女たちと、その声に耳を傾ける能力を持つ著者。どちらも世間の主張に承服できず、常に葛藤と思考のループを強いられる。現実的な解決策どころか、選択権さえ不在の日常を生きていた。ネガティヴ・ケイパビリティが全開だ。

ネガティヴ・ケイパビリティとは、答えの出ない状況にただ耐える能力ではない。世間(多数派)への違和感に晒されながら、耐えること以外に選択肢がない状況で生き、その結果として持たざるを得なかった能力。
ネガティヴ・ケイパビリティとは、決して意識的に望んで手に入れるものではない。

ネガティヴ・ケイパビリティで生きるとは、選択肢のない、致命的な生きづらさを伴う。
ネガティヴ・ケイパビリティを能力のひとつと見なし、「時と場合よって、意識的に使い分けてみよう」というのは非当事者(強者)の発想だ。それはスイッチのように、都合よくON・OFFを選べるものではない。


◼️ネガティヴ・ケイパビリティの搾取

著者たちは、「ネガティヴ・ケイパビリティ と、それを用いる局面の創出」を求めているようだが、現実社会において、それはネガティヴ・ケイパビリティの搾取だ。

ネガティヴ・ケイパビリティ(の能力=その成果)を求めることは、必然的にネガティヴ・ケイパビリティを持つ人間を求めることになる。

労働力は求めるが、労働者(正社員)を求めない超効率志向な社会が、ネガティヴ・ケイパビリティの当事者を、果たして本当に求めるだろうか。求めたとしても、100%出来高制の臨時フリーランスとして、だろう。

そもそも、ネガティヴ・ケイパビリティというものを高らかに謳いはじめたのは、既存のやり方が行き詰まり、代替案を模索している期間だからだ。労働力が不足した時のみ優遇し、事業が軌道に乗れば切り捨てる非正規のように、おそらく、ネガティヴ・ケイパビリティも強者の都合で、その評価を簡単に覆される可能性が高い。

だから、実力主義・成果主義を掲げるこの社会で、声高にネガティヴ・ケイパビリティを求め、その価値を執拗に煽るのは、ネガティヴ・ケイパビリティの成果のみを搾取せんとする、強者のプロパガンダとしか私には思えない。


◼️ネガティヴ・ケイパビリティが欲しいか

ネガティヴ・ケイパビリティは、社会や人生を豊かにする力である。その有益さは多くの人が語る通りだ。しかし、それには否応なく弱者性が含まれている
だから、ネガティヴ・ケイパビリティを称賛する人に対して、私は身構えてしまう。「ネガティヴ・ケイパビリティが内包するリスクを理解しているのか」と。
ネガティヴ・ケイパビリティを揚々と語る人には脅威を感じる。「ネガティヴ・ケイパビリティがもたらす恩恵のみを得ようとしているのでは?」と。
それは、介護は社会に必要不可欠だと認識しながらも、介護現場の当事者になることを頑なに拒む人から感じる違和感に、とてもよく似ている。

例え、それがどんなに素晴らしい能力であったとしても、私は、ネガティヴ・ケイパビリティを欲しい、とは思わない。私は、生粋のネガティヴ・ケイパビリティ保持者なので。

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