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幼き日、魔法のことば。

ゆうたとちひろが出会ったのは、生まれてすぐのことだった。

同じ病院で生まれ、家も近所で、お母さん同士が同い年だったことで仲良くなり、物心がつく前からいつも一緒にいた。

もちろん幼稚園も一緒。
おしゃべりができるようになっても、ふたりはずうっと仲良しだった。

年長さんになった時のこと。

「ぼく、ちぃちゃんとけっこんするんだ」
ゆうたがちひろのお母さんに言った。

どっちのお母さんもとても嬉しそうに笑っていて、けっこんのことはよくわからないけど、ゆうたに好かれているのは嬉しかったから、ちひろも「うんっ」と元気よく言った。

ふたりはそのまま同じ小学校に入学した。

1年生の時は、時々ふたりで遊んだりもしたけれど、クラスは別々だったし、習い事も別々だったから、2年生、3年生と上がる内にほとんど話すこともなくなった。たまにみんなでドッジボールをする時にしゃべったりはするけど、もう前のような特別な関係ではなくなっていた。

でも、ちひろは本当はずうっと仲良しがよくて、ゆうたと一緒にいたいと思っていた。ゆうたが男の子とばかり遊ぶのは、とてもさみしかった。

お母さん同士の関係も少しずつ変わって行った。やっぱり男の子のお母さんは男の子のお母さん同士で一緒にいることが多いし、女の子のお母さん同士も同じ。

ちひろの家は、お母さんとお父さんがずうっと仲良しだったけど、ゆうたの家は、3年生の時に、お父さんの浮気が原因で離婚してしまった。

ちひろは詳しいことは知らなかったし、たぶん聞いてもよくわからなかった。ただ、少しずつゆうたが乱暴になったり、さみしそうな顔をしたりすることが増えて、なんだかちひろもさみしくなった。

高学年になって、生理にもなって、なんとなくだけど、家庭の事情というのがわかるようになってきた。

それでちひろは、ゆうたに声を掛けた。

「ゆうた、大丈夫?」

ちゃんと声を掛けたのはどれくらいぶりだったかわからないけど、ちひろは勇気を出して、ゆうたの為に言ったつもりだった。

「うるせぇな。関係ないだろ」

それがゆうたからの返答だった。ゆうたはそう言ってどこかへ行ってしまい、ちひろは悲しくて、そのまま1人で泣いた。ゆうたはもう、自分のことは好きじゃないんだって思って、ひどく心が痛かった。


ちひろは他の誰よりも可愛いかったから、たくさんの男の子に好かれた。だけど、ちひろはあの時から、ずうっとゆうたが好きなままだった。

「ぼく、ちぃちゃんとけっこんするんだ」

もうずいぶん前のことだし、ぼんやりとした夢のような記憶なのだけど、ちひろには宝物のような、キラキラとした思い出だ。


中学生になったゆうたは、もっと激しく荒っぽくなって、心の中はさみしさに支配されているようだった。

ゆうたのお母さんは、あれから何人かの男の人と恋をして、そして再婚をした。

だけどゆうたはどの男の人とも仲良く出来なくて、新しいお父さんを、お父さんだとは思えなかった。ゆうたのお母さんは、そんなゆうたにだんだんと冷たくするようになって、ゆうたは家でも独りぼっちになった。


ちひろは有名な大学の付属高校に進学して、ある日洋服を買いに原宿に行った時にスカウトされて、俳優になった。

ちひろは他の誰よりも可愛いかったから、あっという間に人気者になって、たくさんテレビに出て、雑誌の表紙にもなった。


ゆうたは高校に入って半年もしない内に退学した。髪を金色に染めて、タバコも吸って、免許を取る前からバイクに乗って、それで警察に見つかって、退学させられた。

ゆうたはずうっと独りぼっちだった。悪いことをする仲間はいるし、悪いことをしている時は一緒に笑っているけれど、心の中はずうっと独りぼっちで、とてもさみしいままだった。


ちひろはどんどん有名になって、たくさんの人から話を聞かれるようになった。

「初恋は何歳の時?」

何回も聞かれて、何回も同じ話をした。

「ぼく、ちぃちゃんとけっこんするんだ」

大事な宝物だから、知らない人に話すのは始めは躊躇ったけど、やっぱり話さないといけないって、心の中の小さいちひろが、そう言ってるような気がして、何回も何回も、聞かれるたびに同じ話をした。


ゆうたは前に不良仲間だった先輩に誘われて、ボクシングをするようになった。アルバイトをしながらボクシングをして、どんどんと強くなって、始めてから2年でプロになれた。

アルバイトもボクシングも一生懸命やって、周りの人からたくさん褒められるようになって、それはとても嬉しいことなんだと知って、悪いことをするのはやめた。

ゆうたは他の誰よりも強くて、試合をすると誰にも負けなかった。勝つとみんなが褒めてくれるし、笑顔になる。だからゆうたは練習を頑張って、もっと強くなった。

そうしている内に、仲が悪かったお母さんや新しいお父さんも応援してくれるようになって、話もするようになって、新しく家族になれた。


ゆうたとちひろは、お互いが頑張っているのを知っていた。

ゆうたはちひろがどんどんと有名になっていくのがさみしくて、でも、本当は嬉しかった。ずうっと仲良くしていたかったのに、仲良く出来ていないのはやっぱりさみしい。だけど、小学生の時にちひろのことを傷つけてしまって、恥ずかしくて謝れなくて、そのまま大人になってしまった。

悪いことをやめて、強くなって、有名になって、忘れられるかと思ったけど、やっぱり忘れられない。他の女の人とキスをしたり、セックスをしても、やっぱり忘れられない。

ちひろがテレビでゆうたの話をするものだから、余計に忘れられなかった。キラキラとした宝物のような思い出。ちひろにとっては過去のことなんだとか、他の人の話をしてるんだとか、そう思おうとしたけど、それも出来なかった。


それからもちひろは俳優を頑張って、ゆうたはボクシングを頑張った。


ある時たまたま買った雑誌にちひろが載っていて、ゆうたは我慢出来ずにページを開いた。

「私の初恋は終わっていないんです」

そう書いてあった。

「ぼく、ちぃちゃんとけっこんするんだ」

あの時から時間が止まっているのだと、そう書いてあった。


ゆうたがプロボクサーになって5年目の時、世界チャンピオンに挑戦することになった。ゆうたは他の誰よりも強いから、とても注目されていて、日本チャンピオンになるのも早くて、世界に挑戦するのもそれほど時間は掛からなかった。

ゆうたは自分がボクシングをやっていることをちひろが知っているかどうかは知らなかった。でも、世界戦は新聞でも雑誌でもネットでも取り上げられたし、テレビも生放送で中継されることが決まっている。きっとこの試合はちひろに届くはずだと信じていた。

ちひろはゆうたが世界チャンピオンと戦うことを知っていた。ちょうどドラマの撮影が午前中で終わる日だったから、マネージャーにお願いして、チケットを取ってもらった。
マネージャーには初恋の相手がゆうたであることを話していて、その日も一緒に後楽園ホールについてきてくれた。


ゆうたは少し調子を崩していた。

減量に苦戦して、ずいぶんと無理をした。今までにない経験だったし、それが世界戦なのもあって、とても緊張してしまっていた。

でも、時間は嫌がおうにもにも過ぎて行き、まともな練習も出来ないままリングに向かうことになった。

リングアナウンサーのコールが会場に響き、ゆうたはリングに向かう。後からチャンピオンが入場し、コールされて、2人はリング上で対峙した。

いつもは相手が睨んできても相手をしないのだけど、今回は自分から睨んで行った。会場はいつもと違うことに驚いて沸いたけど、調子の悪さを隠したいだけだった。

チャンピオンの眼光は鋭くて、今まで戦ってきた選手とは全く違うオーラを纏っていた。ゆうたはその世界に飲み込まれないように必死だったけど、既にいつもの自分じゃないことは、自分が一番わかっていた。セコンドの声も、聞いているようで、聞こえていなかった。

ゴングは気づいたら鳴っていた。体だけがなんとなく習慣で動いているけれど、心はどこか遠くへ置いて来てしまったようだった。

試合は始めから劣勢になり、上手くかわしたりガードはしながらも、すぐにロープ際まで追い込まれてしまう。1ラウンドの2分半が過ぎた時に、チャンピオンの右フックがゆうたの顎にヒットし、ゆうたはダウンした。

当たり方は浅めだったけれど、体に芯が入っていなかったから膝から崩れてしまって、ダウンを取られた。

ダウンはボクシングを始めてから、試合では初めてだった。いつもとは違うリング上からの景色を見ながら、カウントを聞いていた。

ダメージはそれほど無かった。むしろ、一発もらった事で体の無駄な力が抜けた。

立ち上がろうとした、その時だった。

「ゆうたー、がんばれー!」

ちひろの声だ。

直接聞いたのは久しぶりだったけど、間違いないと思った。もしここにちひろがいないとしても、今の声は間違いなくちひろの声だ。ゆうたはそう思いながら立ち上がった。

体が緊張から解放され、心は在るべき場所に収まり、ゆうたに芯が通った。

チャンピオンはやっぱり強くて、なかなかゆうたのパンチは当たらない。でも、ゆうたは他の誰よりも強いから、そう信じているから、ガードを固めながらパンチを打ち続けた。

互いに均衡を破れないまま、ラウンドは10ラウンドを迎えた。互角の戦い故に、1ラウンドのダウンが響いている。判定になれば厳しい。ゆうたは少し焦り始めていた。

体力的にはまだ行けそうだと思い、攻めようと踏み込んだ所にまた右フックを食らう。間一髪致命傷は免れたが、チャンピオンの隙の無さに心が折れそうだった。

「ゆうたー、がんばれー!」

また、ちひろの声が聞こえた。今度こそ間違い無い。会場にいる。

なんとか10ラウンドを凌ぎ、コーナーに戻る。

視線を向けた先に、ちひろがいた。キャップを深くかぶっているけれど、その瞳を見ただけで、ちひろだと思った。

負けられない。その気持ちだけを胸に戦い続けた。

でも、やっぱりチャンピオンは他の誰よりも、ゆうたよりも強かった。万全じゃない状態で勝てるほど甘くなかった。12ラウンドまで戦い抜いたけど、判定は3−0でチャンピオンだった。

互いに健闘を称え合い、会場には大きな拍手と敗者であるゆうたへのコールが鳴り響く。

ゆうたはマイクを掴んだ。

「すみません、敗けました。」

客席に語り掛けると、また拍手とコールで敗者を観客が称える。

「敗けたくせに、アレなんだけど、これだけ言わせて下さい」

客席が静まる。

「結月千尋さん、次、必ずチャンピオンになるから、そしたら俺と、結婚して下さい!」

ちひろが立ち上がり、必然的に観客の注目が集まる。気付いたファンが、ざわついている。

ちひろは大きく息を吸い込んで、

「うんっ」

と、それだけを言った。

「ぼく、ちぃちゃんとけっこんするんだ」

あの時と、同じだった。

「今日勝って、今日プロポーズするはずだったのに」

ゆうたがマイクを通して呟くと、会場に幸せな笑顔が溢れた。


その約束は翌年に守られて、2人はたくさんの人に祝福された。


魔法のことばを信じ続けた2人は、幸せに暮らしましたとさ。

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