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光合成崇拝

光合成を崇拝して止まなかった小学生が、はじめて光合成について知ったのは理科の実験室だった。

①日光が当たる場所で水を適度に与える
②日光が当たる場所で水は与えない
③日光の当たらない暗い部屋で水だけを与える
④日光の当たらない暗い部屋で水も与えない

というそれぞれの条件のもと、四つの中でどの植物が元気か、どの植物が枯れたかを実験した。僕自身も昼休みを返上して理科室にある日光に当たる植物と当たらない植物それぞれに水やりに行ったから、10年以上経った今でもよく覚えている。

結論として分かったことは「水」と「日光」がなくては植物は生きていけない、ということだった。まあ当然のことである。

加えて、水と日光があっても真空状態の部屋に入れられた植物が枯れていく映像を授業で見せられた。ここから、水・日光・空気の三要素がなくては生きてはいけず、それらを取り込む「光合成」という生き方をしているのだと習ったものだ。これにて授業は終了し、翌日の理科の授業は全く別の分野の内容に切り替わった。

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小学5年生の秋、少年野球児としての洗礼を受けた。それは野球人なら誰しもが通る道だった。坊主。丸刈り。無造作ヘアーの境地とも言えるその「髪型」にもはや「髪」はない。「ヘアスタイル」と言い換えてもやはりそこに「ヘア」はない。

今や社会の自由主義化や多様性が認められはじめてきたから、坊主にするかしないかは選択できるようになってきているらしいが、僕が小学生のときはまだまだそんな風潮が始まりつつある頃だ。僕はといえば、ベリーショートのツーブロックやモヒカン、慎太郎刈りみたいなヘアスタイルが多かった。

そんな「ヘア」スタイルを卒業してはじめて頭を丸めたのは、自分の意志によるものだった。試合で勝ちたかったから、ヒットを打ちたかったから、活躍したかったから、球が速くなりたかったから。坊主にすればその全てが叶うものだと信仰していたが、実際に髪があってもなくても変わりやしない。光合成の実験結果と同じくらい当然のことである。

となると、坊主にした理由がよく分からなくなってくる。あれ、僕はどうしてこの世界で生きているのだろう、何のために生きているのだろうという究極的な哲学の問いのように、どうして坊主にしたのだろうと、白球を追っているときもリコーダーを吹いているときも、友達に頭を触られて「気持ちいい!」と興奮気味に言われているときもずっとずっと頻りに思っていた。

究極的な哲学の問いは、考えれば考えるほど分からなくなる。人は哲学的問いに反いてまた現実の課題に目を向けはじめる。このときの僕も同じだ。「なぜ坊主にするのか」なんて考えたとて坊主は坊主なのである。

風が3ミリに刈り上げた頭に吹きつける。季節はまだ秋口なのに、その風はどこか北風のように冷たい。

夕焼けに照らされてアスファルトに映し出されるまん丸のシルエット。ヴィクトル・ユゴーはその影を見て言うだろう、「レ・ミゼラブルああ、無常」と。

クラスメイトからは「海老蔵」というニックネームをつけられ、ご利益があるかの如く毎日頭を撫でられた。決して嫌な思いはしなかったが、風にたなびく街中の髪の毛たちに憧れを抱いた。これぞ、「ないものねだり」である。

髪の毛が早く伸びる方法を模索するなら、ググればいいのにググり方も知らない小学5年生男子。いや、球児。どうすれば髪が早く伸びるのか、思考回路を巡らせて辿り着いた答え——。

それは理科の授業で教えてもらったあの「光合成」だった。頭を水で濡らし、頭皮に日光を浴びさせ、うちわで空気を頭へと送る。この三要素を怠らずに与えれば髪はすくすくと育つ。本気でそう思っていた。そしてこの奇行ともいえる光合成崇拝儀式を授業と授業の間の休憩時間に毎度水道場と窓際の席で行っていたのである。

その儀式をはじめて2日目くらいのこと。水道場の蛇口に頭を突っ込んでずぶ濡れになる僕の姿を見たクラスメイトの女の子が、手を洗いながら白い目をこちらに向けて口を開いた。

「何してるの?」

彼女は僕の奇行の目的を聞いてきた。蔑んだように見られている感覚があった。

「水やりだよ」

僕は笑顔でそう答えると、彼女は何も言わずにポケットからハンカチを取り出して手を拭い、教室へと一人消えていった。

彼女の様子を不思議に思った僕は仲のいい頭脳明晰な友人に、人間の髪の毛は光合成をするのか否かという質問を投げかけた。

「するわけないやん」

と、即答。彼は腹を抱えて声に出して笑っていた。水に濡れた僕の頭をポーンっとうちわで叩いてまた笑っていた。

僕はその瞬間からあれだけ信じて止まなかった光合成崇拝を止めた。次の日からは家の神棚に向かって髪が伸びることを祈りはじめた。神仏の力もあってか、僕の髪が伸びるスピードは相対的に見て割に早い。それは今もそうだ。お陰様で高校生のときには床屋代がかさみ、馬鹿馬鹿しくなってセルフカットの技術を身につけた。未だに自分で切ることだってある。

しかし、髪が伸びるおまじないが溶けて何年後かにまた「何か」に崇拝することがないよう、風呂上がりの今、僕は真摯に頭皮マッサージをしているところだ。いや、そのときが来れば科学的発展を遂げた育毛剤か何かに縋って生きていきたいと思う。髪の毛も光合成をするという新しい学説を僅かに期待しつつ。

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