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ヨーグルトをめぐる闘い

中学生の頃、稀に起こる貧血症に悩まされていた。体育で全力疾走した後急に頭がクラクラし、次の授業には気合で臨むのだが、結局ダウンして保健室で寝る。こんな流れが何回かあったと思う。朝食は毎日欠かさず食べていたし、細い体の割に食事の量は多かった。それゆえ、なぜ貧血になったのかがさっぱりわからず今に至る。稀になる貧血症状であったから、仲の良い友人たちは心配してくれた。本当に恵まれていると思う。

しかも、当時僕にはKという親友がいた。彼は頭脳明晰でイケメン。おまけに高身長。根は優しく、人の心がわかる男だ。たまに意味不明な行動をとるが、そこに個性が表れるから、そんな一面も好きだった。


ある日僕は例のごとく貧血になった。普段饒舌な僕が机でうつぶせになっていると、Kが、「大丈夫?」と低音で温もりのある太い声をかけてきた。なんて優しいのだ。彼は保健委員でもないのに、僕の肩を抱えて保健室まで一緒に付き添ってくれた。もし僕に男性への恋愛感情があったとしたら、確実にKに惚れていたことだろう。

僕は保健室で寝た後、結局早退することになった。立ち上がってもフラフラで、まともに授業も受けられないと担任の先生が判断を下した。帰り支度のために教室へ戻ると、「大丈夫?」とぶっきらぼうに声をかける友人、「早退いいなー」と本音をわざわざ僕に吐露しに来る輩もいた。そんな輩どもからドラキュラみたいに血を吸ってやろうかと思ったが、理性的に考えてやめた。

家に帰ってからすぐに睡眠をとり、夕食はあまり好きではないレバーを母から無理やり食べさせられた。夜もよく寝た。睡眠とレバーのおかげでなんとか体調を取り戻すことができた。

翌日、いつも通り学校へ行くとKが、「体調は大丈夫か」と心配をしてくれた。僕は「まあなんとかね」と返事をして、いつも通り午前中の授業を受けた。四時限目は退屈な英語の授業だ。この授業が終われば給食。腹が減った。昨日は貧血になっているから、今日はたくさん食べようと意気込んでいた。


英語の授業が終わり、いよいよ待ちに待った給食の時間である。僕は今日のメニューを献立表で確認する。特段驚くお惣菜というのはなく、白米とぬるい汁物、生臭い焼き魚、薄味の副菜、そして牛乳といったいつものメニューだ。ただ、この日イレギュラーだったのは、これに加えて「Feヨーグルト」が出されたことだった。Feヨーグルトはその名の通り鉄分が豊富に入っていて、昨日貧血症になった僕にとって鉄分は何にも替えがたい、今一番欲しいものだった。まさに、僕のためのFeヨーグルト。待っていましたFeヨーグルト。救世主Feヨーグルトである。

しかもその日は、欠席者が一人いるため、必然的に一個余る。その余ったヨーグルトを僕が手にすれば、さらに鉄分を二倍接種できることになるのだ。一個余ったものは公平性を鑑みてジャンケンで勝った者が手にする学級のルール。ただし、競争倍率が一倍だった場合は無条件に余りものを手にすることが可能だ。僕が昨日貧血になっていることをクラスメイトは知っているため、彼らは気を遣って余りものジャンケンに参加しない可能性は高い。さすれば僕が無条件に鉄分を大量摂取することができる。これが実現すれば、まさに願ったり叶ったりである。


担任の先生の「ヨーグルト欲しい人、教卓に来て」という合図で僕は勢いよく立ち上がった。周りから椅子を引いたときに発生する乾いた音はしない。勝った。そう思った瞬間だった。

後方からギ―と椅子を引く音がする。誰だろう。背の高い男が立ち上がっているのが見える。僕に加えてヨーグルト争奪戦に参戦したのは、親友のKだった。


昨日あんなに優しくしてくれたKが、ここで貧血の僕に気を遣えないのか。何故だと憎悪の念がひしひしと浮かぶ。恋愛感情があったら惚れていた発言は撤回だ。くそ! しかし、感情に任せたらヨーグルトは手に入れられない。落ち着いて、冷静に、ひとまずジャンケンではなく交渉をしようと試みた。


「昨日おれが貧血になったのは知ってるよね?」
「もちろん。昨日お前を保健室に付き添ったのは俺だし。それがどうかした?」
 Kは昨日のことを忘れたかのようにとぼけた顔で話す。


「じゃあ、Feってなんの原子記号かわかる?」
 彼は僕よりも数段成績が優秀だ。しかも理系教科が得意である。彼が知らないはずはないが、僕は念のため聞いてみた。


「鉄でしょ。貧血に効く鉄」
 Kは即答した。顔色は一切変えない。


「おれはさ、昨日貧血になってるから、今何が何でもこのヨーグルトを食べたいんだ。譲ってくんない?」
 僕は正直に思いを伝えることにした。Kは一瞬だけ眉間にしわを寄せ、困った表情をしたように見えた。だがそれは気のせいだったのか、Kは強気で言った。


「俺はこの味がたまらなく好きなんだ。もう一度この味を堪能したい!」


Kは引き下がる様子もなく、交渉は失敗。ルール通りジャンケンをするしかない。ただ、Kは僕の親友だ。ジャンケンに僕が負け、Kが勝ったら、「最初からこうするつもりだったんだよ」と言って、僕にヨーグルトを贈与してくれそうな気がした。

いや、そもそもジャンケンで僕が勝てばいいだけの話だ。二分の一の確率で勝てる。ジャンケンに勝って鉄分を大量摂取しよう。気合は十分。鉄分は不十分。

僕はKを知り尽くしている。彼はジャンケンをするとき、初手はグーを出す傾向が高いのだ。ならばこちらはパーしかない。パーを出すことを決めて、ヨーグルト争奪戦のジャンケンに挑む。僕たちは口をそろえる。「最初はグー」と言ったとき、心臓は高鳴った。「Kよ、グーを出せ」と念じながら僕は右手を開く。

しかし彼が出したのはグーでも、パーでもなく、チョキだった。負けたのである。膝から崩れ落ちる想いだった。どうしてだ。今日に限ってチョキを出しやがって。だがまだ希望の光はある。言ってくれ、「最初からこうするつもりだったんだよ」と。譲ってくれ、優しい君ならできる。僕はKにテレパシーを送る。彼が僕の目を見て口を開いた。


「お前っていつもパーだすよなあ、じゃっ、いっただきまーす!」


彼は満面の笑みでFeヨーグルトをかっぱらって席に着いた。Kは幸せそうにヨーグルトを平らげる。蓋についたかすかな塊も器用にスプーンで取って口へ運んだ。僕は若干涙目になって彼を見ていたことをよく覚えている。複雑な気持ちになったものである。本当に。ヨーグルトを食べたいという欲求から生まれる悔しさなのか、あるいはKに失望したからなのか、それともそんなことで悩んでいる幼稚な自分に嫌気がさしたからなのか。


今考えてみても、ヨーグルト一つでここまで感情を揺さぶられることはとても恥ずかしいことである。まったくあの時は子どもだったなあと実感する。タイムマシーンができる頃に僕がまだ生きていたら、Feヨーグルトを爆買いして、Kと僕に届けてあげたい。


「押すなよ!理論」に則って、ここでは「サポートするな!」と記述します。履き違えないでくださいね!!!!