生まれてこなくておめでとう


「生まれてこなくておめでとう」

 叔母が流産したという話を母がしたとき、僕にだけ聞こえる声で、姉がぽつりとつぶやきました。ソファに腰かけてうつむいたまま。長い後ろ髪を縛っているその青白い横顔を僕が凝視しても、姉はそれ以上、なにもいわなくて。台所に立っていた母は、また今度遊びにいってあげて、と僕らに微笑んで。姉はうなずいただけで、返事をしませんでした。母に声を返せば、姉がちらりと僕を見て。重なった瞳は、どこか虚ろでした。

 夕食のあと、自分の部屋へと戻っていった姉を追いかければ、ベッドに寝転がっていて。グレーのショートパンツからこぼれた太ももには、青紫の太い血管が、鎖のように巻きついていました。

「なに」

 両腕を広げ、ベッドの縁から足をだらりと垂らしながら、姉は天井を見つめていました。

「さっきのって、どういう意味」
「さっきのって」
「生まれてこなくておめでとうって」

 訊けば、姉はぬるりと上体を起こして。そうして背中を丸めたまま、前髪の隙間から、僕をじっと見つめてきました。

「そのままの意味だけど」
「なんでそんなこと。母さんに聞かれてたらどうするつもりだったんだ」
「別にどうもしないし、そんなヘマしない」
「でも僕には聞こえてた」
「あんたなら別にいいじゃん。あんたあたしの独り言とかよく聞いてるし、でも告げ口とかしないし」

 閉めた扉に目をやりながら、姉に向かってささやきました。

「流産だぞ。産みたくない、みたいな今までいってた独り言とは意味が違うじゃないか」
「流産だからなんなの」
「なんなのって、そんな流産したのを喜ぶみたいなこというなんて」
「あたしは別に叔母さんに対しておめでとうなんて思ってないけどね」
「じゃあ死んでしまった子どもに対しておめでとうって、本気でそう思ってるのか」
「思ってるよ」

 姉は髪をほどいて前髪をかき上げ、頭を振って。左の手首にヘアゴムを通して。

「なんで。悲しいことだろ、流産なんて」
「叔母さんにとって悲しいだけで、子どもにとっては喜ばしいことでしょ」
「どうして」
「生まれずに済んだんだから」
「生まれてこないことはいいことだって、そういいたいのか」
「そうでしょ。苦しまなくていいんだから」

 姉は布団をとんとんと叩いて、隣に座るよう促してきました。けれど従わずにいたら、姉はどさりと布団に倒れ込んで。

「聞きたいんだけどさ、生まれてくることが喜ばしいことだなんて、どうしていい切れるの」
「それは」
「人生つらいことでいっぱいなのに」
「でも味わうのは苦痛だけじゃないだろ。姉ちゃんだって楽しいこととかうれしいこととか経験してきたはずだし」
「そんなのまやかしだよ。でも痛みは幻じゃない。絶対にある。生きてる限り常に」
「まやかしって」
「現実を見ないようにしてるか、考えないようにしてるか、ごまかしてるか。ただそれだけでしょ。だから笑えるんだよ、みんな」

 姉の胸は、呼吸に合わせて淡く上下していました。

「もし流産してなかったら、叔母さんの喜びと引き換えに、その子、死ぬまで苦しむんだよ。だったら叔母さんの悲しみと引き換えに、その子の苦痛がゼロになるほうがよっぽどいいじゃん」
「苦しむなんて」
「人間である以上、生命である以上、逃れられない痛みがあるでしょ」
「それは」

 それは。それ以上、言葉が出てきませんでした。うつむけば、髪の毛の束が、床に落ちていて。

「命はすばらしいものだって、あんたもそういいたいの」
「命は悪いものだって、姉ちゃんはそういいたいのか」
「決して避けられない苦しみより、なにもない、本当になにもない状態のほうがよっぽどいいんじゃない」
「なんでそんなふうに考えるんだよ。そんな悲観的に、どうして」
「どうしてなにも考えようとしないの。そんな楽観的に、なんで」

 姉はベッドに足を載せて、ひじ枕をして。そうして体を丸め、まばたきもせずに正視してきました。

「生まれてこないことは幸福だよ。なにも経験しないことは宝だよ」
「それ、母さんたちの前で絶対にいうなよ」
「いうわけないじゃん」

 姉はうつぶせになって枕を抱いて、けたけた笑いました。白い足をばたばたさせながら。

「あんたこそ、チクったりしないでね」
「するわけないし、できるわけないだろ」
「そう?」

 姉はひざを曲げたまま、小さな声でささやきました。

「あんた、あたしのこと頭おかしいって、そう思ったでしょ。ううん、本当はずっと思ってたでしょ」
「別に」
「分かるよ、それくらい」

 だけど、と姉は湿った言葉を足しました。

「それでもあんたは、あたしの言葉を聞いてはくれるから、だから好き」

 姉はそういって、また左右の足を、交互にゆっくりと動かして。

「姉ちゃんは、生まれてきた僕のこと、どう思ってる」
「あんたも生まれてきちゃったねって」

 でも、と姉は抑揚のない声でつぶやきました。

「あんただけはあたしの話、ちゃんと聞いてくれたから、だから生まれてきてくれて、あたしはよかったって、そう思ってる。あたしにとってはよかったって。ただそれだけだよ」
「なにそれ」

 ベッドに腰かければ、姉に脇腹を蹴られました。

                               (了)

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