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意思表示に思うこと(2/2)

意思表示として、一般庶民は、何ができるか。言いたくても言えない人もいる。集会やイベントに参加したくてもできない人もいる。

実は私は寄付が大嫌いである。寄付したお金の使われ方も気になる。が、それ以上に私が寄付を嫌う理由は、寄付というものは、下手をすると「クレクレ星人」を作り出すからである。問題解決を遠のかせる。

もっと良い方法は、ないか。
私の出した答の一つが、「青と黄色」を身につけるというものだった。冒頭の写真にある靴は、その一例である。

賛同の輪は地味に広がる

ちょっと嬉しかったのは、この靴に職場の同僚が気付いたこと。
「かわいい! どうやって結んでいるの?」と言うので説明した。そして、この色を選んだ理由が「ウクライナに対する私なりの支援の意思表示」であることも話した。
このやり取りの最中、上司もやって来た。この上司も興味津々である。片方だけ解いて結び直して見せながら「靴と靴紐を持ってきたら、やりますよ」とも伝えた。

もう一つ嬉しかったことがある。私が「青と黄色を身につける」というチャレンジを行っていることをこうして情報発信しているのを見て、実践してくれた友達が出てきた。
写真を見せてもらったが、カーディガンとタートルネックで、とても素敵なコーディネートを披露してくれていた。普通にオシャレである。そして、このコーディネートで習い事に通ったり人前で話をしたりと、何人かに会っている。

青と黄色のハンカチをカバンに巻くだけでもいい。青いシャツの胸ポケットに黄色い布を突っ込んでおくだけでもいい。
少しのアクションでもできる意思表示がある。

非難は更なる戦いを生む

ところで、そのカーディガンの友達が、なかなか興味深いことを言っていた。本当はとても素敵な文章なので一言一句そのまま引用したいところだが、ここに大切な部分だけ要約して紹介したい。

・悪いものは悪い
・でも非難することに抵抗がある
・非難は更なる戦いが生まれる
・非難せずにできることがある

それで青と黄色を身に着けた、と。
もちろん、この「非難」は「避難」ではない。あーだこーだ言う「非難」である。

「非難は更なる戦いを生む」という言葉は、しっかり胸に留めておくべきだろう。できることなら戦わずして勝つのが望ましいということは、『孫子の兵法』にも書かれていることである。

改めてコールを振り返る

8日間で7件の集会や行進といったイベントに参加して、正直なところ、私はコールの際に自分で違和感を感じていた。
「ウクライナに平和を!」は元気にコールできる。でも「ロシア帰れ!」は何故かちょっと元気が欠ける感じがしていた。「戦争反対」もそう。「ウクライナに平和を」ほど元気にコールできていない。
一部の集会で叫ばれていた、核に関することや、憲法9条に関することは、「ロシア帰れ」や「戦争反対」よりも更に力が入らない。もちろん私は核なんて原子力発電すら反対であるし、憲法9条がある日本を誇りに思うのだけど、それでも言いようのない違和感がつきまとっていた。それは一つ前に書いた通り「便乗するな!」という思いもあるかもしれないけど、それ以上にモヤモヤしたものが引っ掛かっていた。

なお、私は剣道をやっていたこともあり、このテのコールは得意中の得意である。声には自信がある。気合いだけは誰にも負けない自信があったし、中学生の頃なんて陸上部の子やテニス部の子まで私が部活に出ているかどうかは見なくてもわかっていたなんて伝説まであったりする。
それでもモヤモヤしたものが引っ掛かって、私としては100%の声を出せていないと感じていた。「ウクライナに平和を!」は120%でコールできるのに。

ついでに…その8日間で7回の中で1回だけ、ロシア大使館の前でコールしたことがあった。ロシア大使館の前は、一度に5人だけで、2分したら次の5人と入れ替えである。
「ネット プーチン(НетПутин : プーチン反対)」と、私は自分が作ったプラカードにある文字の通り、ロシア語でコールした。「大使館の人々も、プーチンに反対を唱えて欲しい」「大使館の人々の心の中に、多少なりともプーチン反対の気持ちが残って欲しい、そうしたら少しは世の中全体に良いことをしてくれるかもしれない」そんな気持ちからロシア語でコールした。
すると、これは自分でもビックリするほど大きな声が出た。恐らく私はこめかみに青筋が立っていたかもしれない。まるでウクライナ人の怒りが自分に乗り移ったのではないかと思うくらい、強い声が出た。多分、150%とか180%くらいの力が込められたと思う。剣道の試合でも、ここまで気合いの入った声は、出せた覚えがない。

私は「ことだま」だとか「波動」みたいな非科学的なことは言いたくない。ただ、私は剣道で鍛えていたから飲まれないけど、こんな具合に集会やイベントに参加していると飲まれてしまう人もいるのではないかと思う。
というのも、上にも書いた通り「ウクライナ人の怒りが乗り移った感じがした」という感覚と、自分自身の感覚を、きちんと区別できるかどうか。その乗り移った感覚に自分の感覚が飲み込まれてしまう人も出てくるだろう…それは物語を読んでいて物語の登場人物に感情移入するのに似ている。あるいは戦隊モノが好きな子供がヒーローごっこをするとか、ディズニー好きな子供がアリエルなどになりきるのに似ていると言えば良いだろうか。
ましてや、このご時世。ソーシャル・ディスタンスが叫ばれ、人との接触が少なかっただけに、「人と接する力」「リアルな人から受ける影響力」というものはコロナ以前よりも強烈に作用することだろう。

怒りは敵

ここで私は「怒りは敵」という言葉を思い出した。これは徳川家康の言葉だと言われている。
恐らく家康は、怒り任せに何かをしても失敗するという戒めを込めて「怒りは敵」と言ったと思う。私自身、普段の生活でカチンと来て失敗することも多かったので、ノートパソコンのスクリーンセーバーに、この「怒りは敵」を表示させていたりする。

怒りに飲まれては、ならない。判断ミスをやらかしかねない。

建設的な意思表示を

私の友達が言う「非難は更なる戦いを生む」ということと、この「怒りは敵」ということ、そして私の感じた怒りや非難の感情に乗っ取られそうになる感覚。これらから何を見出すか。
私なりの答としては、まず、怒りや非難は可能な限り用いない、ということである。そして、怒りや非難の代わりに、何か建設的な意思表示を行うことが必要だと思う。
ここで言う「建設的」とは、最低でも「(自分を含めた)誰のことも傷つけないこと」である必要がある。そして「実行可能」であることも必要である。

先に書いた通り、違和感を感じたことで、私は今後しばらく集会などには参加しない予定である。そして、こうして「良い意思表示とよろしくない意思表示」のことを考えた上で、何をどう意思表示するかは、よくよく考えて行いたい。
少なくとも「青と黄色を身につける」というのは、誰のことも傷つけないし、実行可能である。悪くない。

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