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#20 夢 ②

 緑の草原に覆われた丘のふもとで、私はお姫様のようなドレスに身を包み、明るい日差しの中ひとり座って花を摘んだり絵を描いたりしている。丘の上には立派な西洋風の城が建っていて、そこが私の家だ。私を呼ぶ声が聞こえ城の方を振り返ると、家族が私を呼んでいるのが見える。屋上にいる父親が手を振っている。兄弟やペットの犬はそれぞれ窓からニコニコと顔を出している。一階の台所の窓からは、いつも忙しそうな母親の横顔も見える。私は手を振り返しながら、城へと駆け出してゆく。
 とても幸せだ。でも同時にいつも少し悲しい気持ちになる。
 なぜなら私は知っているのだ。
 いくら探しても、その城には入口がどこにもないことを

相談者Aが学童期から繰り返し見ていた夢
  

 どのような相談の内容や精神的な症状の場合に夢を取り上げるかについては、決まっているわけではない。私の場合は、相談者本人が夢について話したい、その夢が気になったり見ることに苦痛を感じたりするなどと訴える場合にほぼ限られる。ただ、まれにだが、こちらから夢の話題を向ける場合もある。それは、相手がその日体調や気分がすぐれなかったり情緒的に不安定だったり、何をどう話してよいのか戸惑うといった、何らかの理由からカウンセリングがうまく進んでゆかなかったりするような場合の、一時期な方向転換、集中力を切り換えるため投じられる変化球のひとつとでもいったらいいだろうか。『ところで最近はよく眠れてますか?』『そんなとき夢なんか見るほうですか?』そんな感じである。
 相手や自分の考えを自由に広げたりするためには、あまり変わりばえのしない、「またか」と相手が思うような対話や問いかけ、助言は避けたほうがよいとしばしば感じる。「別のところに釘を打つことが大事」(中井久夫)である。壁に釘を打つときに、同じところに何度打ってもしっかりと固定しないという理屈である。そのことが突破口となって、カウンセリングが良い方向へ向かっていくこともある。 

 次に、どのような夢を取り上げるのかという問題がある。前回でも述べた通り、夢の多くはむしろ現在の心身の生理的状態や直近に感じているストレスといった現実生活との関連性が色濃い。
 寝室が暑く寝苦しいときには、火事の夢や入ろうとした風呂が熱湯だった、灼熱の砂漠をさまようといった夢を見るかもしれない。逆に寝ている間に布団をはいでしまい寒くて震えるような場合には、背筋が凍るような怖い夢を見ることもある。仕事上のストレスを抱えていたり、二日酔いになるほど深酒した夜などには多彩な悪夢にうなされることもあるだろうし、隣で寝ている人が大いびきをかく、うまく寝返りを打てない、枕が合わない、無呼吸状態、といったような場合にも不快な状況の夢を見ることとなる。布団やベッドからほんの少し体の一部が脱落すれば、高所から落下する夢をみて瞬間ビクッとして我に返るのが私たちだ。したがって、そうした誰もが見がちな夢とは分けて考えた方がよさそうなものについて話し合われることがある。

 家の庭で私はたき火をしている。古い紙や書類、本などをどんどん火にくべている。もっと燃えるものを入れないと火が消えてしまうと焦った私は、「もっと燃えるものを!早く何しているの?消えちゃうじゃない!」とイライラしながら後ろを振り返ると、そこには自分の父母が並んで立っており、目を合わさずに黙って私に家にあるものを次々と差しだしてくる。なかには大切なものもあるようなのだが、そんなことを今いってはいられない。私は受け取り続けながら次々に火に投げ込んでいる。火事になってしまうか心配なほどの勢いだが私にはやめる気はない。

相談者Bがよく見ていた夢

 夢として取り上げるのは、本人の記憶が鮮明で、内容がいつもほとんど変わらず昔から見ているもので、ストーリーに矛盾や破たんの少ない夢を取り上げることが多いように感じる。今回引用した2つの夢事例はこれに当てはまる。繰り返し見る夢については、夢を見た日前後の現実日常生活で何か共通するような出来事や関係者、行動パターンなどはないかどうか確認してみることは役に立つ。常にまず、今現在との関連の可能性に注目することは重要だろう。たとえば相談者Aが最近この夢を見るのは、Aが実家へ帰省する予定の数日前かあるいは実家から戻ってしばらく後がもっぱらだった。また、相談者Bは高校時代からその夢を見ていたのだが、後年妻と離婚した前後からまたしばしば見るようになったという。

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 けれども、夢について話す際に一番大切なのは、「何を見たのか」というよりもむしろ、それらを「どのように」扱うのかという基本姿勢にあると個人的には考えている。私の場合その基本姿勢とは簡単に言うと、「真剣に耳を傾けつつ、結論を急がずそのまま宙ぶらりんにまかせておく」というものである。
 夢内容について興味を持って聞き、相手の意見や考えを尊重してゆくが、その夢が訴えている潜在欲求であるとか、象徴・暗示するメタファーやメッセージを探るといった普遍的固定的な解釈をしようとは極力しない。拙速せっそくに心の問題の源流やその人の人格や過去との関連性を追求はせず、多彩な解釈に開かれたまま夢をそっくりそのまま受け止めカウンセリングを進めていくという姿勢である。夢内容そのものが重要というより、それをきっかけに相談者本人が、自身の苦悩について考え語り始めることをさまざま模索してゆくことに意味があると思うからだ。
 今回(次回でも予定)夢の事例をいくつか挙げているが、詳細には触れない。いずれのケースにおいても、それぞれが精神的にかなりの困難なり負担を抱えながら人生を生きてきたが、それがどうしてなのかについては明瞭でなかった点で共通していた方々であった。読まれた方にもさまざまな感想や意見があるだろうが、実際においても直線的な理解を超えた複雑な要素がこうした夢には絡んでいたことが後にわかってくるものなのだ。


 カウンセリングそれ自体、正誤絶対の解釈をつけずに曖昧さや多義性を持ちこたえながら進めていく過程である。私たち人間は、明確な説明を好み、抽象性や曖昧さを嫌い、シンプルな結論や正誤善悪判断、因果関係の特定に走りがちな動物である。だが、人間や人の心は本来極めて複雑多彩な存在である。だからそこへ深く立ち入ろうとするなら、曖昧さや不明瞭さを解消しようとせずに、いったんそのままを受けとめ棚上げすることを相手にも自分にも求める冷静さや忍耐が問われる。夢について語ることもまた同じである。もちろん言葉で言うほど簡単ではないのだが。
 カウンセリングにおけるクライアントとの関係は、五里霧中の山中を手探りで進んでゆく旅人や登山者達に似ている。周囲が定かでない中、無理に進もうとしたり勝手な思い込みで行動に出れば、遭難や事故の可能性は高まる。必要な情報や装備は利用しつつ、けっして慌てずに互いに寄り添いながら霧が晴れるのをじっと待つことがかえって、目的地に到達する近道となるものなのだ。

 僕は何だか君らに夢の話でもしているような気分だよ ― 虚しいことをしているようなね。というのも、夢の中身をどう語っても、夢の感覚は伝えられないからだ。あの馬鹿らしさと驚きと当惑と反感の混ざりあった感じ。何か信じがたいものに捉まってしまったという思い。それこそが夢の本質なんだが...

コンラッド「闇の奥」黒原 敏行 訳 光文社

#19 夢 (1)

メンタルケア&カウンセリングオフィス C²-Wave 六本木けやき坂

FineGraphicsさん



 


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