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セクス・アンド・ザ・ドライブ・マイ・カー(Ver 2.0.0)

“潔さは認めるが、あまりにも狭い領域でのウケしか期待できない作品であることに、どれほど作者(およびその周囲、受容者)は自覚的でいるのか。野暮かもしれないが、改めて問い直したくなった。”

第2回カモガワ奇想短編グランプリ 大賞・優秀賞発表および選評

1.

 バーで女の子と知り合った。飛び切りの美人ではないけれど、どことなく、トータルの印象として清潔感と愛嬌がある女の子。
 僕たちは馬鹿話(その頃、僕はまだ大学生で、つまり話すことや考えることのほとんどがそれだった)をして、山火事のようにお酒を呑んだ。終電がなくなると彼女はそのまま、当時僕が住んでいたアパートにやってきてた。そして水が高いところから低いところに流れるように、あるいはマシーンが寸分たがわぬ動きで期待された動作を実行するように、つまりはごく自然に、僕たちはセックスをした。
 その夜はこんな夢を見た。
 
 今日は地元の自動車工場へ見学にきています。
 恐竜みたいに大きな機械たちが、己が定められた機能と構造に従い本能のままより小さな機械をつくりその小さな機械は更に小さな機械を更に彼らはより小さい機械を更に彼らは……。
 それはおそろしい速さで寸分の狂いもなく行われる凡庸な奇蹟でした。
 僕はそれが大量に生産されるさまを、ただただ呆けて眺めていました。おわり。
 
 窓から差し込む陽光と、部屋のすぐそばを通る電車の振動で僕は目を覚ました。
 彼女はすでに起きて、ベットの上に座って、部屋の隅を見つめ、カチコチに固まっていた。007のベットシーンをみた中学生のペニスくらい固まっていた。口元がわなと震え、瞳孔が大きく拡がっていた。小ぶりで、かたちの良い乳房があらわになっていた。
 僕は彼女の乳房をしばらく眺めてから身体を起こし、彼女の視線の先を見た。
 そこに年老いた男がいた。
 髪は真っ白で丸い黒縁の眼鏡。眼鏡と同じ色の、黒のロングソックスのほかは何も身に着けていなかった。左右の太もものあいだに、しんなりとしたペニスがあった。
 彼は部屋の片隅に置かれたスツール(あんなの、部屋にあったかな?)に腰掛け、腕を組み、静かに目を瞑っていた。
 普段ならハムスターの交尾くらいせわしなく往来する電車がピタ……と止まった。部屋はしんとしていた。ちゅんちゅん、と窓の外でスズメが鳴いていた。
「だれなの……?」掠れた声で彼女が僕に囁いた。
 僕はちょっと考えた。知人にも、親戚にも、ご先祖さまにも、こんな顔の男はいなかった。本当に誰だこいつ。
 僕はとりあえず、枕元に置いてある煙草の箱から一本取り出し、口にくわえて火をつけた。吐いた煙はゆっくりと広がりながら、天井へと昇っていった。
 そんな風にしばらく悠長にしていると、彼女が焦れたように僕の腕を掴んで、「ねぇ……!」とゆすってきた。煙草の灰が僕の右乳首のうえに落ちた。僕は慌ててそれを手で払った。右の乳首がじんわりと熱を帯びた。
 確かに、僕の部屋である以上、この老人に対して何らかのアクションをとるのは僕の責務になるんだろうな。それはもしかすると、一夜を伴に過ごした彼女に対するその、道義的な責任、かもしれなかった。
 僕は老人に声を掛けた。
「あの、どちらさま……?」
 老人はゆっくりと瞼を開いた。そして黒縁眼鏡のレンズの奥の小さな二つの目で、僕と彼女を交互に見た。それから、足元に置かれた二枚の札のうちの一方を掴み、おもむろに掲げた。
 札には、

 セクス

 とだけ書かれていた。
「セクス……?」彼女が呟いた。彼女と僕は互いに目を合わせ、首を傾げ、再び老人のほうを見た。
 老人は、僕と彼女を指差してから、
 
 セクス。

 と呟き、深く頷いた。
 そして沈黙があった。深い海の底にいるような、光の届かない厳かな沈黙だった。

 彼女は急いで服を着て、逃げるように僕の部屋から出ていった。僕は彼女が出ていくのを見送ってから、連絡先を聞くのを忘れていたのを思い出した。それから、昨夜の健康的で快適な交わりを思い出し、正直かなり後悔した。
 煙草をもう一本喫って、彼のすぐ脇を通って風呂に向かい(横を通る時、彼は膝を閉じて道を開けてくれた)、熱いシャワーを浴びた。バスルームから出ても老人はスツールに座ったままだった。僕は台所へ向かい、パンを一枚、いやいちおう、二枚焼いて、そこにたっぷりとバターを塗り(金は無くともマーガリンを塗る気にはどうしてもなれない)、インスタントのコーヒーを二杯いれた。目玉焼きでも、と思い冷蔵庫を開けたが卵が無かった。
 二人分のパンとコーヒーをトレーに載せ、部屋のほうを振り返ると、彼は既に、僕が食事や大学のレポートを書くのに使っている、小さくて丸い木製のローテーブルのまえで胡坐をかいていた。僕は彼の前に、パンを載せた皿とコーヒーの入ったマグを置いた。彼はまじまじと、バターの塗られた薄いパンを見つめ、コーヒーの黒い水面に映った自分の顔を覗き込み、それから僕を見た。僕がどうぞ、と無言ですすめると、彼はまずコーヒーを指さし、

 マティニ。

 と小さく呟いた。
 それはどう考えてもマティニでは無かったので「マティニでは無いですよ」と僕は言った。
 彼は僕のほうへ、頭をあずけるように首を傾げ(うら若き乙女が、ステディの肩に頭をあずけるような、甘ったるい角度だ)、

 マティニ。

 と再び呟いた。
「違いますよー」僕は食い気味に言った。
 彼はちょっと唇を尖らせ、黒縁の眼鏡をくいと持ち上げ、

 ・・・ノット・マティニ。

 と呟いた。
 僕たちはむしゃむしゃとパンにかじりつき、ごくごくとコーヒーを流し込んだ。

 2.

 彼が消えるまでの三年と四か月と一週と二日について。
 これを“同棲”と呼んでいいものだっただろうか?
 一つ言えるのは、大学にいるとき、バイトをしているとき、バーにいるとき、映画館にいるとき、喫茶店で同級生とマズいコーヒーを飲んでいるとき、レコード・ショップにいるとき、そしてガールフレンド(やそれ以外の女の子)とセックスをしている時でさえ(僕はこの時期、自分でも信じらないほどにたくさんの女の子を抱いた。少なくとも5、60人はくだらないはずだ。一体何があったのか? 僕にどんな魅力があったのか? 僕はなぜ山火事のように彼女たちを抱いたのか? それらは絶えず過去へと向かう奔流に押し流され、欠片も思い出すことはできない)、僕はつねに彼の存在を感じていた。彼はいつでも“そこ”にいた。僕の眼はスツールに腰掛ける(彼は決まってスツールに座っていた。もはやスツール自体が彼の一部であるかのように)彼をまさぐり、僕の耳朶は彼の息遣いに咽び、僕の鼻孔の奥で彼の枯れた土のような体臭がたえず渦巻いていた。
 朝がくると、決まってガールフレンドたちは怯えた様子で部屋の隅を見ていた。彼はスツールに座り、彼女と僕の顔を見つめ、彼にとって、もっとも重要なものを確かめるように、あの札を掲げるのだ。

 セクス。

 ガールフレンドは大慌てで服を着て部屋を後にする。僕は煙草を喫い、熱いシャワーを浴びる。そして僕の部屋であればパンとコーヒーを二人分用意する。僕と彼はただ黙って、むしゃむしゃと朝食を食べる。
 やがて噂が広まると、僕と一夜を伴にするような、勇気のある女性はいなくなってしまった。
 やれやれ。

 3.

 四年生になり(その大学には結局六年ほどいた)そろそろ就職活動を始めないといけないなあ、などと思い始めた矢先、僕は思いがけずひとりの女性と出会った。仔細は省くけれど、僕は(あるいは僕らは)驚くほどあっけなく恋に落ちた。そして僕が随分渋ったのにも関わらず、遂にセックスをしてしまった。
 その夜はこんな夢を見た。
 
 僕はベットの上に仰向けになっています。
 “彼女”が僕のうえに覆いかぶさって、抱きついています。彼女の顔は見えません。ですがいい匂いがしました。
 彼女の、見えない顔の向こう側に、僕の部屋の天井が見えました。そして天井付近には僕が浮かんでいました。僕はこちらを見下ろしていました。
 あっあっ、これは幽体離脱だな、と僕は思いました。
 そして、はたと困りました。
 仮にあれが抜け出た僕の魂だとしてそれを認識するこの僕はいったい誰なのでしょうか?
 すると天井近くに漂う僕の口が動きました。声は聞こえませんでした。ですが話している言葉は不思議と分かりました。霊魂の僕はこう言いました。
 われわれは二つに別れた。すなわち、霊魂としての私と肉体としての私──。

 朝の光とハムスターの腰振りのような電車の振動。
 目覚めると、既に彼女が起きている気配がした。
 ああ、これで彼女ともお別れか。僕は何だかとても悲しくなった。そして未練たらしく、ごろんと寝返りを打った。
 彼女が僕の背中を軽く撫でて「おはよう」と言った。僕も仕方なく、おはようと返し、彼女を見た。
 彼女はベットのうえで上体を起こし、豊かな乳房を二つ丸出しにして(それは本当に、今思い出しても美しいかたちの乳房だった)、静かにコーヒーを啜っていた。
 ちょっと驚いて、そのまま彼女を見つめていると、彼女は僕の視線に気づいて、飲みさしのマグをこちらに差し出してきた。僕もようやく起き上がり、彼女と隣り合わせに、ベットの上に並んで座った。そしてコーヒーを一口啜ってから、部屋の隅を見た。
 そこにはスツールに座った彼がいた。黒のロングソックスの他は何も身に着けておらず、足のあいだの柔らかいペニスはしんなりとして、

 セクス

 と書かれた札を掲げ、小さく、

 セクス。

 と呟いた。
 彼は僕たちを見て、深く頷いた。
 僕は彼女を見た。彼女はあるかなしかの、不可思議な笑みを浮かべていた。

 僕と彼女はシャワーを浴び、三枚のパン・三個の卵を使ったスクランブルエッグ(目玉焼きのつもりだったが、途中で黄身が割れてしまった)、三杯のコーヒーを用意し、三人でローテーブルを囲んだ。それはひどく凡庸でいて、奇蹟的な朝食だった。
 彼女は彼のことを「健ちゃん」と名付けた(だって、「健ちゃん」って感じでしょ? とのこと。僕は「サカモト」はどうかな? と提案したのだが、彼女は頑として譲らなかった。彼女が折れなかったのはそれが最初で最後だった)。僕は「サカモト、サカモト、サカモト?」と彼に呼びかけた。彼はまるで寝ているように微動だにしなかった。次に彼女が「健ちゃん」と一言いうと、彼は目を閉じたまま、ちょっとだけ頷いた。

 4.

 彼女との最後の思い出について。

「あなたのことは好きよ。だけど、あなたとセックスしているとき、自分が、なんだか透明になった気がして、いやなの」
「透明に?」
「そう。透明に」
「よく分からないな。そういうの……」
 てきぱきと下着を、そして服を着る彼女の背中を眺めながら、僕はつぶやいた。
 白のブラウスを着たところで彼女が僕のほうへと振り返り、陰のある顔で僕を見て、ゆっくりと言葉を選ぶように、
「私とセックスしているとき、あなたの目は、私の身体を通り越して、あのひとを、健ちゃんを見ているのよ」
 と言った。それから、“あるいは、健ちゃんでさえ……”と付け加えた。その先は無かった。沈黙。
 やがて彼女は、再び口を開いた。
「その時、私は透明になって──あのひとが掲げる札、あのひとのいうところのセクス、ただそれだけ。そこにわたしはいないの」
「──」
 彼女は自分自身に対して、僕に対して、あるいは健ちゃんに対して、もしかすると別の何かに対して、溜息をついた。そして立ち上がり、僕のほうを振り返らずに部屋を出ていった。去り際に、健ちゃんの頬に軽くキスをした。健ちゃんは目を瞑ったまま、静かに、すこし悲し気に頷いた。
 僕はしばらくベットに寝転がって、彼女の出ていったドアの先を見つめた。それから、部屋の隅を見た。黒縁丸眼鏡の向こうの瞼は固く閉じられていた。

 5.

 学部六年目の五月ごろ、知人から「車が安く(というのは諸経費を除けば、ほぼタダで)手に入るけど、どう?」という話が舞い込んできた。
 どんな車なのか、僕が尋ねると、
「いや、おれもよく分かんねぇんだけれど、デケぇ」
 こンくらい、と彼は両手を大きく広げた。「撮影? か何かに使っていて、新しいのに買い替えるから、安い」と彼は付け加えた。
 僕は少し考える振りをして、結局その場で、その話に乗ることにした。
 車は知人の言う通り、確かにデカかった。それはちょっとしたトラックで、奇妙だった。荷台部分が全面鏡張りで出来ていた。その中はもっとユニークで、外からは確かに鏡なのだけれど、中からは外の様子が丸見え。いわゆるマジックミラーというやつだった。
「撮影というのは、映画とかかな?」と僕が尋ねると、知人は「知らねぇ」の一点張りだった。
 特にやることもないので(あるにはあった。ただ、やりたくなかっただけだ)、僕はとりあえず、これで全国をぐるっと一周、ドライブ・マイ・カーしてみることにした。

 旅に出てから気づいたのだけれど、この車は僕の考えている以上に有名な作品か何かに使われていたらしかった。
 道行く先々で、特に二十代から四十代くらいの男たちが、樹液に群がるカブトムシのようにぞろぞろ寄ってきては、荷台の、鏡の奥を熱心に覗き込んでくるのだ。僕は荷台部分でごろんと横になり煙草を喫いながら、そういった男たちの顔をぼんやりと眺めたり、あるいはいきなり外に出て、声を掛けてみたりした。
「うわっ。お兄さん、この車、どうしたの?」
 僕の登場に驚いた男たちは、若干しどろもどろになりながら尋ねてきた。
「知人から譲り受けまして」
「ああ……撮影とかではないんだ?」
「そうなんです。いま、全国一周の旅に出ていまして」
「……あの、良かったらでいいんだけど、ちょっとだけ中を見させて頂いても……」
「構いませんよ。ところで、この車、なんという映画に出てたのでしょうか?」
 僕がそう尋ねると、男たちは決まって曖昧な笑みを浮かべて、チョット、分カラナイ……と口を濁し、代わりに、中を見せてもらったお礼と称して、幾ばくかの金や、あるいは食料を置いていってくれた。これは大いに助かった。
 また、ごくたまにではあるけれど、若いカップルがやってきて、「しばらくのあいだ荷台部分を使わせてくれないか?」と言ってくるのもあった。そんな時、僕は町に出て、買い物や洗濯や食事やらを済ませる。そうして、たっぷり時間をかけて戻ってくると、中で象でも暴れてんのかい、というくらいに車の荷台が激しく上下している。そして健ちゃんは荷台の、鏡の部分に眼鏡を擦りつけるようにして、中の様子をギシギシとねめつけている。
 僕は健ちゃんの隣、激しく揺れるマイ・カーの荷台に背中を預け、煙草に火をつけようとするのだけれど、車体がガックガクに揺れるために、もたれ掛かった僕のほうもガックガクに揺れて、まともに火をつけることが出来ない。僕は煙草を喫うの諦め、ふと健ちゃんを見る。彼は鏡に眼球をこすりつけんばかりの勢いで中を覗き込み、高らかに札を掲げては

 セクス・・・セクス。

 と呟いている。
 それから長い時間が過ぎる。ようやく揺れが収まり、汗ばんだカップルが出てきて、「なんか、覗かれると、ヤバいっすね……!」と言って、僕と健ちゃんにレッドブルを一本ずつ手渡して去っていった。
 レッドブルを一口飲んだ健ちゃんはちょっと首を傾げ、

 ・・・マティニ?

 と一言だけ呟いた。

 6.

 あるいはもしかすると、僕はいつでも終わらせることが出来たのかもしれないと今になって思う。
 それは彼女の言う通りだった。それは透明なのよ。それは私の身体を通り過ぎる──。僕はそれを見ないようにしていたのだ。
 しかし、これは誰が始めたことだろうか? 僕か? 健ちゃんか? あるいは……。
 
 年の暮れが近づいていた。
 僕らは宗谷岬を目指して海沿いを走っていたはずなのだが、どこで道を間違えたのか、日はとっくに沈み、車はいつの間にか、明かり一つない曲がりくねった山道を、もう何時間も彷徨っていた。あんまりにも寒いし、お腹は空くし、僕の機嫌も悪かった。健ちゃんは助手席でひたすら、

 ディス・イズ・ノット・セクス。ディス・イズ・ノット・セクス。オーバ。

 と繰り返し呟いていた。
 ちらりと横を見ると、健ちゃんの全身に鳥肌が立っているのが見えた。ヒーターの温度を上げようと、一瞬前方から目を逸らした。
 どん、と何かが車にぶつかった。
 僕は慌てて車を停め、外に出た。
 犬だった。大きな、黒い犬が車の前に斃れていて、ピクリとも動かないでいた。そして雪の上に、赤く黒い染みがゆっくりと拡がっていくのが見えた。
 車から降りた健ちゃんが犬をじっと見て、それから僕を見て、札を上げた。「セクス」と書かれた、いつもの札ではなかった。ただ一言、簡潔に、

 犬殺し

 とだけ書かれていた……犬殺し! そうか、僕はこの犬を殺した。殺した。殺した……!
 健ちゃんはただ無言で、僕をじぃっと睨みつけてきた。
 健ちゃんの股のあいだのペニスは、もう北極星よりも小さくなっていた。
 
 一度車を止めたのが良くなかった。車は、黒い犬の亡骸を前にして、うんともすんとも動かなくなってしまった。ガソリンも心許なかった。僕はエンジンを切り、荷台部分へと移動した。
 荷台の中の温度は急速に下がっていた。健ちゃんは荷台の入口近くに置いたスツールに腰掛け、腕を組み、目を閉じていた。星は見えなかった。明かりはどこにもなかった。本当の、真っ暗闇だ。その闇のなかでも分かるほど、健ちゃんの身体は激しく震えていた。
 そのとき、本当に唐突に、彼女の最後の言葉が浮かんだ。それは透明なのよ。あなたの目は、私の身体を通り越し──。
 そして別の、僕自身の声(あるいは他の誰かの。またあるいは、他の何かの)が聞こえた。声はこう言っていた。
 われわれは二つに別れた。すなわち、霊魂としての私と肉体としての私。

「おいで」 
 僕は健ちゃんに声を掛け、毛布の片側を持ち上げた。
 彼は目を大きく見開いて、黒縁眼鏡の奥から用心深く僕をねめつけた。僕はただ、静かに頷いた。
 彼はおもむろに立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩いてきて、僕の毛布の中にするりと潜り込んだ。僕は健ちゃんをぎゅっと抱きしめた。僕の腕の中で、彼の震えがゆっくりと収まった。
 結論から言えば、僕たちはセックスをした。
 その夜、僕と健ちゃんは、あらゆる構造と機能、それら有限個すべての組み合わせを遂行した。それはこの世界にありふれた、凡庸で、ただ一つだけの奇蹟だった。
 鏡の向こうから、森や、けものや、それ以外のすべてのものたちが、それをじっと見ていた。
 
 翌朝になると健ちゃんは消えていた。轢いたはずの黒い犬も消えていた。
 僕は荷物を纏め、マイ・カーに火を放った。

 7.

 東京へ戻り、僕は大学を卒業した。そして奇妙ないきさつを経て、現在はものを書くことを生業として暮らしている。
 彼を「健ちゃん」と名付けた彼女とは、一度だけ、本当に偶然に、ばったりと再会した。僕らは互いの、いま・ここにいたるまでの健闘を称え合い、健ちゃんの話をした。そして最後に、互いの幸福を祈り、別れた。
 それきり、彼女とは会っていない。もちろん、健ちゃんとも。


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