セクス・アンド・ザ・ドライブ・マイ・カー(Ver 1.0.0)
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大学生の頃の話だ。
その日はバーで知り合った女の子とお酒を呑んでいて、終電がなくなり、彼女はそのまま当時僕が住んでいた部屋にやってきた。そして自然な流れで、僕たちはセックスをした。
朝になって目が覚めると、隣でその子が大きく目を見開いて部屋の隅を見つめている。僕は身体を起こして、彼女の視線の先を見やった。
そこには年老いた男がいた。髪は真っ白で、黒縁の、まん丸の眼鏡を掛けていた。眼鏡と同じ色の黒のロングソックスの他は何も身に着けていない。足のあいだにはしんなりとしたペニスが見えた。
その老人は部屋の片隅のスツールに(あんなの置いていたかな?)腕を組んで座っている。静かに、目を瞑っている。
「だれなの……?」と彼女が囁く。
「さあ、だれだろう……」
ぼくはとりあえず、枕元の煙草の箱から一本取り出し火をつけた。深く息を吸い込んで、吐く。煙がゆっくりと広がりながら、天井へと昇っていった。そうやって、しばらく悠長にしていると彼女が焦れたように僕の腕をゆすってくる。確かに、ここが僕の部屋である以上はこの正体不明の老人に対し最初のアクションをするのもまた僕の責務になるんだろう。僕は一夜を伴に過ごした彼女に対するその、道義的責任、とでも呼ぶべきものを果たすべく、その老人に声を掛けた。
「あの、どちらさま……?」
老人はゆっくりと目を開き、僕と彼女を交互に見る。それからスツールの足のあいだに置かれた札を掴み、おもむろに掲げた。札には「セクス」とだけ書かれている。
「……セクス……?」彼女が呟く。
老人は僕と、彼女を交互に指差してから、
・・・セクス。
と言って、深く頷いた。
彼女は急いで服を着て、逃げるように(実際、僕の部屋から出るにはくだんの老人のすぐ隣を通り抜けなければならず、彼女は直前まで、窓から下に降りられないか真剣に悩んでいた。僕は「流石に二階だし、下はコンクリートだから、やめたほうがいいと思う」と忠告した)僕の部屋から出ていった。彼女が出ていくのを見送ってから、ああ、そういえば連絡先を聞くのを忘れていたなと僕はちょっと後悔した。
とりあえずベットで煙草をもう一本。それから熱いシャワーを浴びた。バスルームから出ても老人はスツールに座ったまま微動だにしない。
僕は台所へ向かいパンをいちおう二枚焼いて、そこにたっぷりとバターを塗り(子どもの頃からの習慣で、マーガリンを塗る気にはどうしてもなれない。今も変わらず、だ)インスタントのコーヒーを二杯いれる。目玉焼きでも、と思ったが卵がなかった。
それらをトレーに載せて部屋のほうを振り返る。すると老人は既に僕が普段食卓やレポートなんかを書くのに使っている木製の小さな丸いテーブルの前に移動していて、胡坐をかいてラグの上に座っていた。僕は黙って老人の前にパンを載せた皿とコーヒーのマグを置いてやる。老人は珍しいものでも見るかのように、バターの塗られた薄いパンを見つめて、それから僕の顔を見た。僕は、どうぞと声も出さずにいう。老人は再びパンを見つめてから、
・・・ノット・セクス。
と小さく呟くと、むしゃむしゃとかじりついた。僕もむしゃむしゃとやり始めた。
それから彼がある朝、忽然と姿を消すまでおよそ三年と四か月と一週と二日、これを共同生活あるいは同棲と呼んでいいものか今でも分からない。ただ一つ言えるのは、キャンパスにいる時、バイトをしている時、飲み会の時、映画を見ている時、そしてガールフレンドとセックスをしている時でさえ、僕はどこかで彼の息遣いを確かに感じていた。そうして僕が朝目覚めるたび、決まってガールフレンドたちは怯え、部屋の隅を見ている(これは僕の部屋だろうと彼女の部屋だろうと、あるいはそれ以外の部屋だろうと一緒)。そして彼もまた決まって、スツールに座り、彼女と僕をじっくり見て、彼にとって重要な何かを慎重に確認してから、あの札を掲げる。
セクス。
当然、彼女たちは大急ぎで服を着て部屋を後にする。僕は煙草を喫い、熱いシャワーを浴びてから、そこが僕の部屋であれば、パンとコーヒーを二人分用意する。そして僕と彼はむしゃむしゃと朝食を伴にするのだ。
やがて噂が広まると、僕と一夜を伴にしようとするような勇気のある女性はいなくなってしまった。
やれやれ。
四年生になり(その大学には結局六年ほどいた)そろそろ就職活動を始めないといけないなあ、などと思い始めた矢先、ひとりの女性と出会った。仔細は省くのだけれど、僕らは恋に落ち、そして僕が随分渋ったのにも関わらず、遂にセックスにまで至ってしまった。
翌朝僕は目覚めると既に彼女が起きている気配がする。ああ、これで彼女ともお別れか。僕は名残を惜しみ、ごろんとうつ伏せになる。すると彼女が、軽く僕の背中を撫でて、
「おはよう」
という。僕も仕方なく、おはようと返し、彼女を見る。
彼女は僕の隣で、ベットのうえで上体を起こし、豊かな乳房を二つ丸出しにして、静かにコーヒーを啜っていた。僕がちょっと驚いて彼女を見つめていると、彼女は飲みさしのそのマグを僕のほうに差し出す。僕はのそのそと上体を起こし、彼女と隣り合わせに、ベットの上に並んで座る。それから、彼女から受け取ったブラック・コーヒーを一口啜り、部屋の隅を見た。そこにはやはり彼がいて、黒のロングソックスの他は何も身に着けておらず、スツールに座り、柔らかいペニスはしんなりと、そして、セクスと書かれた札を掲げ、小さく、
・・・セクス。
と呟く。彼は僕と彼女を見て、深く頷いた。
僕はそっと横目で彼女の様子を伺う。彼女はあるかなしかの、不可思議な笑みを浮かべていた。
その日は三人分のパンと、スクランブルエッグ(途中で黄身が割れてしまったので、仕方なく)と、コーヒーを用意し、木製の丸いテーブルを三人で囲み、むしゃむしゃ朝食を食べた。
彼女は彼のことを「健ちゃん」と名付けた(だって、「健ちゃん」って感じでしょ? とのこと。僕は「坂本」はどうかな? と提案したのだが、彼女は譲らなかった)。それから、彼女とは九か月と少しのあいだ付き合って、別れた。
「あなたのことは好きよ。だけど、あなたとセックスしているとき、自分が、なんだか透明になった気がして、いやなの」
「透明に?」
「そう。透明に」
「よく分からないな。そういうの……」
てきぱきと下着を、そして服を着る彼女の背中を、呆然と眺めながら、僕はそうつぶやいた。
彼女はゆっくりと言葉を選び、
「私とセックスしているとき、あなたの目は、私の身体を通り越して、あのひとを、健ちゃんを見ているの」
そうなのだろうか? 彼女が言うのだから、そうかもしれない。
「その時、私は透明になって──あのひとが掲げる札、あのひとのいうところのセクス、ただそれだけ。そこにわたしはいないの」
「──……」
彼女は自分自身に対して、僕に対して、あるいは健ちゃんに対して、なにかひとつ大きな溜息をついて立ち上がると、そのまま、僕のほうを振り返らずに部屋を出ていった。ぼくはしばらくのあいだ、ただベットに寝転がって、彼女の出ていったドアの先を見つめ、それから部屋の隅を見た。黒縁丸眼鏡の向こうの瞼は固く閉じられていた。
傷心のためということでもないのだけれど、そのまま社会人になるような気も起こらなかった。そんな折、知人から車が安く(というのは諸経費を除けば、ほぼタダで)手に入るけど、どう? という話が舞い込んできた。
どんな車なの、と僕が尋ねると、
「いや、おれもよく分かんねぇんだけれど、デカい」
「デカい?」
撮影か何かに使っていて、新しいのに買い替えるから、というのが、その知人の説明の全てであった。僕はその話に乗ることにした。
果たして車が手に入ったのだが、確かに言う通り、デカい。というか、ちょっとしたトラックだ。奇妙なことに、荷台部分が全面鏡張りで出来ていた。荷台部分の中はもっと奇天烈、外からは鏡なのだけれど、中からは外の様子が丸見え。いわゆるマジックミラーというやつだ。
「撮影というのは、どんな? 映画とかかな?」
僕が尋ねると、その知人は
「や、うーん、おれも詳しいことはよくわかんないんだよね」の一点張りだった。
とりあえず、これで全国をぐるっと一周、ドライブ・マイ・カーすることにした。
実際、旅に出てみて気づいたのだけれど、どうもこの車は僕の考えている以上に有名な映画か何かに使われていたらしい。道行く先々で、特に二十代から四十代の男たちが近寄っては、鏡の奥を熱心に覗き込んでくるのだ。僕は荷台部分でごろんと横になって煙草を喫いながら、そういった男たちの様子をぼんやりと眺めたり、あるいは外に出て声を掛けてみたりした。
「お兄さん、この車どうしたんです?」
と男たちが尋ねてくるので、僕は、
「知人から譲り受けまして」
「あ、撮影とかではないんですね」
「そうなんです。いま、全国一周の旅に出ていまして」
「……あの、良かったらでいいんですけど、中を見させて頂いても……」
「構いませんよ。どうぞ。ところで、この車、なんという映画に出てたのでしょうか?」
僕がそう尋ねると、男たちは決まって曖昧な笑みを浮かべて、いやあ、どうだろう……と口を濁し、代わりに、中を見せてもらったお礼と称して、幾ばくかの金や、あるいは食料を置いていってくれた。これは大いに助かった。
また、ごくたまにではあるけれど、カップルでやってきて、しばらくのあいだ荷台部分を使わせてほしいというのもあった。そのあいだ、僕は町に出て買い物やら洗濯やら食事やらの用事を済ませる。そうしてたっぷり時間をかけて戻ってくると、荷台部分が今なお激しく揺れていて、鏡に眼鏡を擦りつけるようにして健ちゃんが中の様子をねめつけている。僕は健ちゃんの隣の、激しく揺れるマイ・カーの荷台部分の鏡面に背中を預け、煙草に火をつける。それから、健ちゃんを見る。彼は今や鏡に眼球をこすりつけんばかりの勢いで中を覗き込もうとし、そして静かに高らかに、札を掲げては
・・・セクス。・・・セクス。
と呟いている。
やがて揺れが収まると、汗ばんだ様子のカップルが降りてきて「なんか、覗かれるとやばいっすね……!」と言って僕と健ちゃんにレッドブルを一本ずつ手渡して去っていった。
終わりは唐突であった。しかしあるいは、何時でも終わらせることが出来たのかもしれない。彼女の言う通りだ。透明だったのだ。僕はそれを見ないようにしていた。しかしこれは誰が始めたことだろうか? 僕か? 健ちゃんか? あるいは……。
その年の暮れが近づいていた。そしてその冬で初めての、例年に無い強い寒波がやってきていた。
僕らは宗谷岬を目指し海沿いを走っていたはずなのだが、どこで道を間違えたのだろうか、いつの間にか、夜の入りくねった山道をもう何時間も走っていた。あんまりにも寒いし、お腹は空くし、僕の機嫌も悪かった。健ちゃんは助手席でひたすら、
ディス・イズ・ノット・セクス。ディス・イズ・ノット・セクス。オーバ。
と繰り返し繰り返し呟いていた。僕はいらいらしながら、健ちゃんのほうを見た。健ちゃんの全身に鳥肌が立っているのが見えた。僕がヒーターの温度を上げようと、一瞬前方から目を逸らした。
どん、と何かが車にぶつかった。
慌てて車を停め、外に出た。犬だ。大きな黒い犬が斃れていて、ピクリともしない。雪の上に、赤黒い染みがゆっくりと拡がっていくのが見えた。
いつ車から降りたのか、健ちゃんが犬をじっと見て、それから僕を見て、札を上げた。「セクス」と書かれた、いつもの札ではなかった。ただ一言、簡潔に、
犬殺し
とだけ書かれていた。
そうか、僕はこの犬を殺したのか。
健ちゃんは今にも泣きそうな顔で、僕をじっと見つめた。健ちゃんの股のあいだのペニスはもう北極星よりも小さくなっていた。
一度停まったのが良くなかった。車は、その黒い犬の亡骸を前に、うんともすんとも動かなくなった。ガソリンも心許ないので、僕はエンジンを切り荷台部分へと移動した。中の温度は急速に下がっていった。健ちゃんは荷台部分の入口近くの壁と、マジックミラー部分との入隅に置かれたスツールに腰掛け、腕を組み、目を閉じていた。暗闇でも分かるほど、健ちゃんはぶるぶるとシバリングしていた。
そうだ。何時でも終わらせることが出来る。あるいは今日、この夜にでも。
僕は健ちゃんに、おいで、と声を掛け、毛布の片側を持ち上げる。実際には声を発していなかったかもしれない。兎に角、彼は目を開いて、僕の真意を確かめるように、用心深く僕を見つめた。僕はただ、頷いた。彼はおもむろに立ち上がると、こちらへやってきて、僕の毛布の中にするりと潜り込んできた。僕は彼をぎゅっと抱きしめた。僕の腕の中で、彼の震えがゆっくりと収まった。
僕らはセックスをした。鏡の向こうから、森や、けものや、それ以外のすべてのものが、僕らを見ていたのが見えた。
翌朝、健ちゃんは消えていた。轢いたはずの黒い犬も消えていた。
僕は荷物を纏め、マイ・カーに火を放った。
東京に戻った僕は何とか大学を卒業し、実に奇妙ないきさつではあるのだけれど(これに関しては本旨から外れるので割愛する)、現在はものを書くことを生業として暮らしている。
彼を「健ちゃん」と名付けた彼女とは、その後一度だけ、本当に偶然に、ばったりと再会した。僕らは互いの近況を報告しあい、健ちゃんの話をし、そして互いの今後の幸福を祈り、別れた。
それきり、彼女とは会っていない。もちろん、健ちゃんとも。
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