大江健三郎『性的人間』における〈J〉の欲望について

 大江健三郎の『性的人間』は三人称視点で書かれる二部構成の短編小説である。前半部では、主人公である〈J〉たちが映画を撮るために訪れた別荘での事件が扱われる。後半部では、国会議事堂前駅で痴漢をした〈少年〉が、《舗道上の友人》という痴漢行為の互助組織について扱われる。本稿中の引用の明記方法については、丸括弧内の全角数字が引用・参考文献の数字と対応する。


 『性的人間』では主人公である〈J〉の性癖を中心として人間関係が構築される。それは、前半部では「自分を核とした自分流の性の世界」(1.p.50)や「Jの上機嫌で快楽的なサロン」(1.p.106)と表現されている。後半部では、前述のとおり《舗道上の友人》や「痴漢クラブ」(1.p.100)と表現されている。さらに、後述する彼の〈第一の妻〉の自殺、これをきっかけとして彼に生じた罪の感覚などもそうである。
 『性的人間』は作品の題からも読み取れるように、登場人物の殆どが何らかの性的錯綜に陥っている。特に〈J〉の「ホモ・セクシュアル」をはじめとする「肛門とオルガズムの連絡」や後半部の「反・性的な自己処罰の欲求」による「痴漢としての自分の快楽への熱望」は、彼の性的不能の原因が器質的な病変ではないことを示している。
 男性の性的不能について、精神分析家のカール・A・メニンジャーは次の6つの形態に分類する。「関心の欠如」「勃起の欠如」「勃起維持力の欠如」「オルガズムの欠如」「快感の欠如」「倒錯やフェチシズムを伴ったもの」である。
 この中で〈J〉に該当すると言えるものは「関心の欠如」「オルガズムの欠如」「快感の欠如」「倒錯やフェチシズムを伴ったもの」である。
本稿では、この4点を見ていくために、前半部の事件と後半部に描かれる〈サロン〉の崩壊以降《舗道上の友人》によって破滅する〈J〉の様子を考察する。さらに〈J〉の性的不能の原因について、メニンガーが「精神分析学の見地からみた性的不能と不感症について」において提示しているいくつかの無意識的葛藤のカテゴリーに対応させて考察する。
 前半部の〈サロン〉のメンバーは「J、その妻、ジャガーを運転しているJの妹、中年男のカメラマン、若い詩人、二十歳の俳優と十八歳のジャズ・シンガー」(1.p.8)の七人である。〈J〉と〈ジャズ・シンガー〉が愛人関係にあることは、この七人のうちでは周知されており、つまり〈Jの妻〉も承知の上である。さらに、〈サロン〉内の他メンバー間でも肉体関係は結ばれており、たとえば〈Jの妻〉は〈若い詩人〉と情人の関係であったことが描かれる。
 彼らは岬にある別荘に向かう途中に通る村で、姦通をした女の家の前に群がる「三十人ほどの」「昂揚し苛だち不機嫌な中年女たちの集団」を見る。彼らは、別荘近くの村ではこのようにして姦通が「辱められる」ことを知る。後に彼らの〈快楽的なサロン〉は別荘に侵入した村の子供によって村人たちに通報されて、明け方に「中年女たちの集団」が別荘に押し掛けることになる。
 侵入した子供によって村人たちが「辱め」に来るまでの間に、彼らの間で〈J〉の最初の妻についての問答が行われる。

「もしあの子供が崖から身を投げて死ぬということにでもなれば、あなたは二人目のなにも罪のない無邪気な人間を殺すのよ、J」
「なぜ、あなたはそういうことをいうの?」と密子がいった、一瞬、逃亡した子供のことを忘れるほど動揺して哀れげな声で。
「なぜなら、もう一人すでにJが、なにの罪もない無邪気な人間を自殺させたからよ」
[略]
「Jのまえの奥さんが自殺したのは、Jがその娘さんと結婚したあとも、厭らしい外国人の男色家と、昼間からベッドにはいったりしたからだ。Jは奥さんにそれを告白しなかったくせに、見つからないよう気をつけもしなかったんだ。J、きみは、結婚した日から、あの奥さんが自殺することを望んでいたんだ。きみは奥さんが睡眠薬を百錠ものんだのを知っていたくせに睡りこんだふりをして奥さんの死をじっと待っていたんだ。J、いつまでも黙ってごまかしているのか?」
(1.pp.62-65)

 〈カメラマン〉によって「第二の妻」である〈Jの妻(密子)〉に暴露された「第一の妻」の自殺にまつわる話は、〈J〉が構築した〈サロン〉に回復不可能な亀裂を生じさせた。第二部では〈快楽的なサロン〉が崩壊に至ったことが示されている。
 〈J〉は「第一の妻」の自殺に対してどのように考えているのか。それは〈密子〉によって「肛門の愛撫」から導かれたオルガズムの後に、自省的な感情を伴って回想する。

Jは最初の妻が自殺していしまった冬の夜明けちかくのことを思いだした。[略]いわばあの冬の夜明けちかくのベッドの中での恐怖感からたちなおることのできる日のために生きているのだった。第二の妻が、かれの性の小世界を承認したときはじめて、かれは死んでしまった第一の妻から自分を解放できるきっかけが出て来るのだと思っていた。なぜなら死んだ妻にたいしてなにごとかを償うことはもうできない以上、かれは逆に自分自身のなかの罪の感覚を、逆に正当な自己主張の感覚に転化して、自分の平安を取り戻すほかないのだから。
(1.pp.52-53)

 この自省から、〈J〉自身も〈カメラマン〉や〈J〉の妹の指摘の通りに「第一の妻」の自殺に対して「罪の感覚」を覚えていることが分かる。さらに、この贖罪不可能な「罪の感覚」から「自己主張」として「第二の妻が、かれの性の小世界を承認」することを求めていることが分かる。
 それはつまり〈密子〉が〈J〉の「ホモ・セクシュアル」を認めることに他ならないのであり、そのために彼は〈快楽的なサロン〉を形成して〈十八歳のジャズ・シンガー〉を周知の愛人関係に置くなどして、〈密子〉が徐々に「ホモ・セクシュアルへの偏見から自由になる」ことを導いてきたのである。

 この試みはある程度は成功していたと言える。それは〈密子〉が〈J〉を愛撫している最中の思考に表れる。「Jはまた彼女自身との性交にもにせの熱中しかしめさない。その事情について密子は感じ取っていた。[略]それでいてなおかつJが執拗にケイコと密子にたいして性的にはたらきかけることに意味はなんだろう?」(1.p.47)
 しかし、〈J〉の試みが完全に達成される前に〈Jの妹〉と〈カメラマン〉によって「第一の妻」の自殺が明かされてしまう。それはつまり、肉体関係と人間関係が入り組んだ〈快楽的なサロン〉が〈J〉の贖罪のためだけに催されているのだという事実の暴露であった。この暴露によって、自己の快楽が〈J〉のためだけに利用されていたことが「鬱屈した激しい憎悪」を彼らの間に生じさせる。
 しかし、〈サロン〉は彼らの欲望を解決する手段として存在していたことは確かである。例えば〈若い詩人〉は〈Jの妻〉を欲望していたし、〈カメラマン〉は勤務先のフィルム制作会社では満たされない承認欲求のために〈サロン〉を利用していた。
 先の「暴露」は友情で結びついていたと信じられてきた〈サロン〉への「憤懣と不信」を引き起こし、そのために〈サロン〉は崩壊に至るのである。



 この別荘での崩壊ののち、物語は〈J〉と〈老人〉の《舗道上の友人》という痴漢互助関係の話に移る。
 後半部はこの《舗道上の友人》を続けていた〈J〉と〈老人〉が、国会議事堂前駅で痴漢を犯したゆえに逮捕されそうになっていた〈少年〉を助ける場面から始まる。〈少年〉は「痴漢をテーマにした嵐のような」《厳粛な綱渡り》という詩を書くために「いちばん勇敢で絶望的な痴漢になってやろうとしている」のであった。
 少年を《舗道上の友人》に迎え入れた二人は、《厳粛な綱渡り》を書くために彼が計画しているプランが「痴漢の行動範囲をこえて性的な犯罪の域にいたっている」ようなものであることに一抹の不安を覚える。『性的人間』の語り手は、彼のプランに対する〈J〉の心理作用を次のように記述する。

「そしてそれはJの無意識と照らしあわせてみれば次のようなタイプの心理作用であったかもしれない。Jは自分自身、危険な棘のあるウニみたいな痴漢になりかねないことを知っており、それを懼れている。そこで、少年の危険な棘をとりのぞいてやることで、自己防禦に近いことをしようと望んでいるのだ」(1.p.122)


 〈少年〉は結局、痴漢行為の枠をこえた性的犯罪に手を出そうとする。物語終盤、彼は〈J〉と〈老人〉に語ったのではないプランを、服薬した睡眠薬の興奮作用のなかで実行しようとする。それは幼女を誘拐しようとすることであった。しかし〈少年〉は電車に轢かれて死ぬ。反対側のプラットホームに母親を見つけて線路上に飛び出した幼女をかばってのことだというのが、母親の証言であった。
 〈少年〉の死の後、〈J〉と〈老人〉は自分たちの痴漢としてのふるまいに「ごまかし」があったことを理解する。「結局われわれは、あの少年のように危険な痴漢になるか、痴漢であることを止めるか、そのどちらかしか道がないという気がする」(1.p.131)〈J〉と〈老人〉は痴漢行為が「自己処罰の欲求」を原因としていることを自覚しながら、決して処罰されることのないように相互扶助組織を形成したことを「ごまかし」と理解したのである。
 最終的に《舗道上の友人》は解消されて〈J〉は痴漢行為を数週間中断する。しかし、〈Jの妻(密子)〉が〈カメラマン〉の子を妊娠したことと、〈密子〉が離婚して〈カメラマン〉と再婚したがっていることが〈カメラマン〉の口から告げられる。
 〈J〉が〈密子〉との離婚を受け入れて、これを彼の父親に話すと、彼の父親は〈J〉にアメリカのアマルガムの新工場でのポストを用意しようと提案した。この提案を「もとの順応主義者としての現実生活に戻るチャンス」と捉えた〈J〉は、これを承諾して「自己欺瞞の順応主義者の新しい生活」が始まることを、そして「四十年後の自分」の姿をつい先に見た自らの父親の風貌姿勢に見る。
 突如、極度の興奮に襲われた〈J〉は地下鉄に乗り込んで痴漢をする。「かれの精液はもうぬぐいがたく確実に娘の下着を汚しひとつの証拠として実在していた。一瞬、一千万人の他人どもがJ!と叫びたてるようだった。至福感とせりあっていた恐怖感の波が一挙にJをのみこんだ。数人の腕がJをがっしりとつかまえた。」(1.p.139)〈J〉が犯した痴漢行為が「一千万人の他人ども」の叫びによって咎められて、彼が「恐怖感の波」にのまれたところで『性的人間』は終わる。



 〈J〉の性的不能や痴漢行為の原因はなにか。それは、彼自身に起きた事件で言うならば「第一の妻」の自殺に求められるだろう。〈J〉は「第一の妻」の死が自分に責任があると考えている。それは彼の性愛の対象が女性ではないにもかかわらず、「第一の妻」と結婚してしまったという罪悪感から逃れるために、〈カメラマン〉の指摘の通りに〈J〉は「第一の妻」の自殺を望んでいたのだった。しかし、満願の日以降〈J〉は、償うことのできない罪の感情を正当な自己主張に転化すること、すなわち自身のホモ・セクシュアルを〈密子〉に認めさせることを目標にしてきたのである。さらに〈サロン〉の崩壊以降は、自己主張に代わって「反・性的な自己処罰」として痴漢が行われる。痴漢によってオルガズムに達したまさにその時に「一千万人どもの他人」の叫びが彼を咎めることで、彼の「反・性的な自己処罰」とそれへの欲求は解消されるのである。
彼が「第一の妻」をはじめとして〈サロン〉メンバーや〈少年〉と痴漢の被害者等に押し付けてきた彼の性癖が「性的」なものとして据えられているのであり、これに対する概念とは「一千万人どもの他人」であり、彼の痴漢によるオルガズムを否定する「至福感とせりあっていた恐怖感の波」こそ「反・性的」なものなのである。
 〈密子〉との性交においても、彼女に自らの肛門を愛撫させる等して、〈密子〉を男色相手の代用として見ていることは間違いないのであり、この点からメニンガーの6つの分類にある「関心の欠如」が挙げられる。メニンガーによれば、精神分析は性的不能の原因としていくつかの「無意識的な情動」が存在することを指摘する(Meninger1962)。この中で〈J〉の「自己処罰への欲求」に当てはまる可能性のあるものは「処罰への恐怖」と「同性愛的葛藤」「自己愛」であると考えられる。
 「同性愛的葛藤」とは、自分と同じ性の人間を好むという「同性愛期」が抑圧されて、正常な状態ではこれは友情関係などに表れるのみであるが、同性愛的要素が過剰であったり教育が不適切な場合に消失せずに残ってしまって起こる葛藤のことである。メニンガーは本項目の中で「無意識的な同性愛者たちは[略]どんなに自分が異性愛の能力をそなえているかを証明しようと躍起になっている。[略]自分は同性愛ではないと、自分にも他人にも確証を与えようとしたがっている」(2.p.122)と説明する。
 〈密子〉が別荘で〈J〉を愛撫しているときに疑問していた、〈J〉が偽の熱中しか示さないが密子とケイコに固執する理由は「同性愛的葛藤」で説明がつく。〈J〉は完全に無意識的な同性愛者ではないが、自らが同性愛者であるとともに、異性愛の能力を備えていることの証明として、〈密子〉と〈ケイコ(十八歳のジャズ・シンガー)〉に固執するのである。
 「自己愛」とは、そのままに自分自身への愛情のことである。正常な状態では、「自分に対する愛情の貯金を引き出してその一部を他人を愛することに投資する利益について理解するようになる」(2.p.123)という。しかし、自己愛が傷つかないように、自己愛を豊かにするような人間関係以外を求めることが出来ない場合がある。それは他人からの反対・批判や、苦痛であった経験を原因とすることが多い。「この種の人物は、性行為の際、特に自分の虚栄心が満たされ、万能感が高められたりする状況では、非常に精力的になる場合がある。」(2.p.124)

 〈J〉が〈サロン〉を構築したのは、自己主張のためであった。それは〈密子〉に自身のホモ・セクシュアルを承認させるためであったが、〈サロン〉メンバーは各々が性に何等かの問題を抱えているのであった(例えば〈密子〉は不感症であり、〈ケイコ〉は色狂いである)。それは「第一の妻」の自殺行為によって彼女に否定された〈J〉のホモ・セクシュアルという「傷」が目立たないようにするために、周囲の人間関係を性に問題を抱えた人々で固めたと考えられる。さらに、痴漢によって〈J〉がオルガズムに達することが出来るのは、それが彼の万能感を高める状況だからであると考えられる。
 「処罰への恐怖」は、性的経験に紐づいてしまっている処罰が、実際の社会から執行される処罰とは異なっているのに、この区別がつかないために性的経験が処罰を受けるべきものとして個人の中に無意識的に位置づけられてしまうために起こる。「処罰への恐怖」は「自分が一定の誘惑に脅かされていると判断するまさにその瞬間に、非常な活撥さをもってはたらくのである。そのように自我を脅かす誘惑というのは、かつて受けた処罰の苦痛を連想させるような性質をもった誘惑である。」(2.pp.118-119)
 〈J〉が「自己処罰」を欲望するのは「第一の妻」への罪悪感ゆえであった。この罪悪感とは「第一の妻」が自殺行為によって彼のホモ・セクシュアルを否定したにもかかわらず、この自殺での抗議に対して〈J〉は一切の反応をかえすことが出来ないことから生じた。自身の「ホモ・セクシュアル」が否定されたにもかかわらず、それに対する処罰を与える執行者が存在していないのである。ゆえに〈J〉は「自己処罰」を欲望する。さもなければ、彼の性癖は処罰を受けないままに彼の中に否定されたまま存在し続け、それは彼の内では一定の価値を持ちながら、他者によって否定されたことのあるセクシュアリティとして分裂してしまうのである。
 この分裂を避けるために、彼は物語の最後で性犯罪である痴漢をはたらくことによって、社会からの処罰を受けることを選択する。痴漢がそもそも「自己処罰への欲求」を原因としていながら、《舗道上の友人》という相互扶助によって絶対に処罰されない立場にいた〈J〉は、〈少年〉が、誘拐しようとした幼女を助ける形で〈少年〉自身で「自己処罰」を与える姿を見る。それは決して〈第二の妻(密子)〉が〈カメラマン〉と姦通したことによって与えられるような「自己欺瞞」の赦しではない。自身の否定された「ホモ・セクシュアル」への執行者を欲望することこそが、彼自身の無意識の欲望なのであり、最後の地下鉄での痴漢において訪れた「恐怖感の波」に「処罰への恐怖」を認めたのである。



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