見出し画像

第五話 軍鶏群 ―しゃもむらがる― (三)

<全七話> <一>  <二> <三> <四> <五> <六> <七> 


<三>

◇◇◇

三十五銭約八千円……」

 咲保さくほ愕然がくぜんとしながら、『トマトケチョップ』の棚に並ぶ赤いボトルと値札を眺めた。一念発起いちねんほっきして買いに来たものの、予想外の値段におののいた。輸入品なのだから仕方がない値段だろうし、買えない値段ではない。買えない値段ではないが――、

「オムライスの七倍……えぇ……」

 言い換えれば、オムライス七皿分の値段。瓶の容量を見れば、七皿分以上はあるだろうが、果たして、使い切ることができるのか疑問だ。そもそも、オムライス以外の使い方を咲保は知らない。買うか買わないか、悩ましいところだ。
 オムライスを家でも作れないか、と思ったのが始まりだ。食べたい時に食べられるし、その方が経済的に思われた。外食にはまだ早い妹にも、一度、食べさせてあげたいと思った。妹の好きそうな味だし、喜んでくれるだろう。最近はお稽古けいこごとで頑張っていることもあって、ねぎらいを込めて。
 作り方については何度か食べて味は覚えたし、大体の作り方は店でそれとなく聞いて知った。調理自体はそう難しくもなさそうだった。ただ、微妙な火加減が必要なので、瓦斯ガスを使わないと難しいだろうとは言われた。確かに、料理で火加減はいちばん難しい。その点で瓦斯は、たきぎよりも随分と容易いそうだ。だが、瓦斯は木栖きすみ家のある地域にはまだ普及しておらず、いつになるかわからない。それでも、だし巻き卵を作る要領ですれば、なんとかなりそうでもある。
 問題は、調理器具も食材も、最近、西洋から入ってきたものばかりだということだ。フライパンとフライ返しは使い勝手や良いと、茉莉花まつりかから聞いた。焼いたり炒めたりするのに、手軽でいいらしい。ゴマを炒るのにも。少しずつ一般の家庭にも広がってきているそうだ。こちらは母を口説いて買ってもらうことにした。だが、問題は食材だ。
 玉ねぎ、ピーマンは八百屋にも売っていなかった。聞けば、ピーマンは昔からあるが、最近、渡ってきたばかりの西洋野菜と同様に生産者も少なく、どちらも売ったところで売れない。ほとんどが業務用や滞在中の西洋人向けに販売するばかりで、普通の八百屋では手に入らないそうだ。特に今の季節は野菜の旬を外れているから、国産のものは無理だろうと言う。代替え品を探すか、専門で輸入品を取り扱う業者に頼むしかない。どうしても欲しければ、与古濱よこはま那古野なごやの農家が作っているそうなので、予約して箱買いのお取り寄せになるらしい。ただし、いつ届くか、幾らかかるかわからないそうだ。言われてみれば、先だって店で食べたものも刻んだピーマンではなく、青い豆に変わっていたというのはそういうことか、と今更ながらに思い至った。
 この時点で、咲保の心はくじけかけていたのだが、とりあえず、トマトケチョップなる調味料だけは輝陽橋きょうばしにある店で手に入ると聞いて、やって来たというわけだ。黄色い卵にかかる、色鮮やかな甘酸っぱい赤いソースは外せない。せめてこれだけでもと思ったが、この値段にはがっかりした。瑞波みずはを店に連れて来る方が早いに決まっている。今回は見送ろうと決めた途端、どっ、と疲れが出た。
 せめて、お茶でも飲んでいこう、としょんぼりしながらいつもの店に来てみれば、偶然、後からやってきた梟帥たけるに出会った。そもそも、茉莉花の紹介の店で、熾盛しじょう家の親戚が店主の店なのだから、梟帥が来ても何ら不思議ではないと気づいた。どうやら、今日はそういう日らしい。

「街中で会うなんて、珍しいね。今日は買い物?」
「はい。そのつもりだったのですけれど、思うようにいかなくて。結局、無駄足でしたわ」
「それは残念だったね」

 下駄を履いているせいか、梟師はいつもより嵩高かさだかく見えた。当たり前の顔で、咲保のテーブルの向いの席につくのを眺めた。にらみつけるまるおの隣の席で素知らぬ顔ができる神経は、彼らしいと思いながらもなかなか真似できるものではないな、と思う。西洋風の襟巻えりまきに洒落しゃれつむぎの彼の今日の装いは商家の若旦那風で、似合っているのだがどこか軽々しい。磐雄いわおを教えに来ている時とはまた違った感じだ。

「梟帥さんは今日は。何かご用が?」
「うん、父の使いを片付けてきたところ。ああ、珈琲を一つ。咲保さんは、ほかに頼まない?」

 追加注文は断った。

「そういえば、桐眞とうま先輩ってなんかあった?」
「いえ、兄がどうかしましたか」
「いや、一昨日、あっちで一緒だったんだけれど、なんかぴりぴりした感じだったから。なにかあったかなと思って」
「さあ、特に心当たりはありませんけれど……」

 でも、周囲の空気も悪くなるんだよね、とぼやかれて、に落ちる。あっちとは裏の務めのことだろうが、勘の良いことだ。まさか、モノにさらわれていたからなどと言えるわけもない。咲保はとぼけるしかなかった。

「今回の試験の結果がふるわなかったらしい、とは聞きましたわ。そのせいかも」
「へぇ、先輩が珍しい」
「最近、忙しかったですから。梟師さんはいかがでしたか」
「僕の方は問題なし。それで、あれから恋文の相手がわかったとかは?」
「聞いてもいませんわ。わざわざ機嫌を損ねるようなことはしたくございませんもの」
「ああ、怒ると怖いから」
「いえ、面倒なだけですわ。でも、特に変わった様子もないですから、ご縁にならなかったのではないかしら」

 そう答えれば、「流石さすがに家族は余裕だなぁ」、と妙な感心の仕方をされた。
 話題を変えるのに都合良く、梟師の珈琲が運ばれてきた。白いカップに注がれたチョコレイトを思わせる黒い液体は、咲保はまだ試したことがない。聞けば、苦いそうだ。お茶の苦味とも違うそうで、どんな味か好奇心はくすぐられるが、好き嫌いが分かれると聞いて、手を出しあぐねていた。梟帥が一口のむ様子を興味深く眺めるが、特に表情も変わらず、美味しいともなんとも言わないので、判断がつかなかった。

「そういえば、私もひとつお聞きしたいことがございましたの」
「なんだろう」
「磐雄を教えていただいたお礼についてですわ。護身用だそうですけれど、具体的にどういうものが良いかと思いまして。何から身を守るかにもよりますから。真言しんごんが必要なものは梟帥さんはお使いになることは出来ませんから、大して選べませんが」

 そう尋ねれば、梟帥は、ああ、とわずかに表情を暗くした。

「まあ……普通に怪我とかから身を守る感じかな」
「討伐の時にお使いになられますの?」
「いや、ええと、それって他人に渡してもいいかな。普通の人なんだけれど」

 意外な問いを返された。てっきり自分で使うものとばかりと思っていたからだ。初めて会った時の興味津々な様子から、好奇心で玩具おもちゃのように扱われると思っていた。

「内容にもよりますけれど……どなたにお渡しになられますの?」
「ああ、うん。できれば友人に」
「災難避けみたいなのがよろしいのかしら」
「災難って言えばそうなるのかな? 弾よけとか」

 どこか言いにくそうに答える様子に、はた、と思い当たる。

「軍の方ですの?」
「まだ訓練兵だけれど、近く前線に向かうことになると思う」
「ああ、そうでしたのね……」

 十七歳以上の男子は、徴兵検査を受けることが義務付けられている。検査に受かれば三年の訓練期間を経て、常備兵じょうびへいのほか予備兵、後備兵こうびへいなどを経て、四十歳の年齢まで召集に応じることになる。富国強兵ふこくきょうへいが声高に叫ばれる昨今にあっては優遇されることも多く、兵役に就くことに積極的な者も多くいると聞く。梟帥は兄のひとつ下ということは、その友人というのも、そういうことなのだろう。

「……今日、歩いていても、軍人さんを多くお見かけしましたわ」
「そうだろうね」
「気のせいか、以前よりお見かけする数が増えた気がして……単に、私が街の風景を見慣れていないせいかもしれませんが」
「いや、そうじゃないと思うよ」

 梟帥は空にした珈琲カップを皿に戻すと言った。

「咲保さん、この後、少し時間ある?」
「ええ、大丈夫ですけれど」
「じゃあ、ちょっと場所を変えようか」

 確かに、人目があるところでは話しにくい内容だ。どこで聞き耳を立てている者がいるかわからない。下手に政府批判に引っ掛かろうものなら、面倒事にもなりかねない。咲保もうなずいた。

◇◇◇

 初めて会った時から、咲保は不思議な娘だと思っていた。それ以前は、高等学校の先輩の妹で、噂に聞くばかりの存在だった。病弱の箱入り娘らしいと聞いていたが、会ってみると、どうやらそれだけではないようだ。全身を護法で覆い、モノを連れ歩いている時点で、只者ただものではないだろう。明らかにこちら側の人間なのに、梟師たちともまた少し雰囲気が違う。妹にそれとなく聞いてみたが、これから仲良くなるのだと言って、今のところはよく知らないそうだ。以来、どこが違うのかずっと気になっていたが、今ここに来て、また驚かされた。

「すごいな……ここ、咲保さんが?」

 小さな日本家屋を前に、梟師は感嘆の声をあげた。

「基礎だけまるおに教えてもらいながら、手伝ってもらいました。あとは余裕がある時に少しずつ自分で。でも、長年かけてやっとこの広さですから、お恥ずかしいわ」
「そんなことない。凄いよ。挑戦した奴を知っているけれど、結局、作れないままだし。結界を張ろうとしてもすぐ消えるって言ってた」
「ああ、結界とは違いますから。コツがございますの。どうぞ、お上がりください」


 熾盛家に誘おうとしたところ、咲保にだれはばかることなく話せる場所があるからと、誘いを受けた。路地から人気のないことを確認して道を開き、『あわい』に入った。そこからいきなりすすきの群生地に飛んで、この『場』に案内された。文字通り、『飛んだ』。

「四の六の五、八、十」

 呪文のように唱えたひふみ読みの数字はなにを意味するのか――考える間もなく、足下に覚束おぼつかなさを感じた次の瞬間には、風景のちがう別の『道』にいた。目の前になかった薄ヶ原すすきがはらが広がっていた。

「え、今、なにした?」

 『あわいの道』の使用についてはそれなりに精通している自負があるが、こんなのは梟帥も知らない。

「歩くと手間がかかりますから」

 咲保は宙に手を置きあっさりと答えるが、逆に梟師は混乱した。

「いやいやいや、待って待って、歩く手間をはぶいたって、そんなこと出来るの? 座標がない『あわい』でそんな場所の指定ができるってこと?」
「仕組みについては私もわかっておりませんので、お聞きにならないでくださいまし。教わった通りにしているだけなので……開門」

 完全に、言葉を無くした。一言のみであっさりと中に入れた時点で、咲保の『場』であることは間違いなかった。仲間内で個人の『場』を持ちたいと思っている者は大勢いるが、梟帥の知る中で、実際に『場』を持っているものはすめらぎだけだ。驚くしかない。
 咲保の『場』には低い竹垣に囲まれた中に、小さな建物がひとつあるだけだ。玄関もなく、砌石みぎりいしで下駄を脱いでそのまま六畳間に上がる。茶室を思わせる広さでしかないが、一面を開け広げた何もない空間は開放的だ。床間には、女性の手らしい書の掛け軸が飾ってあるほか、一輪挿いちりんざしや卓がわりの小さな台などがあり、素朴さの中にところどころ女性らしいおもむきが感じられる。上品な沈香ちんこうの香りが、ゆるやかに鼻先をかすめる。

「部屋は他にも?」
「二間だけですわ。あとは納戸と屋根裏が。あと水屋みずやと」
「お茶を淹れてまいります」

 そそくさと化け狸が水屋があるのだろう方へと出ていくが、梟帥をひと睨みしていくことも忘れない。不埒ふらちな真似などするつもりもなく、『場』の主に対しなにかができるわけがない。知らんふりをして縁側に立ち、外の風景を眺めた。
 『あわい』に風はないのに、風の流れが見えた気がした。枯れ草の独特の匂いを嗅いだ気がした。

(ああ、いいな……)

 視界一面の穂の開きかけの薄だ。その真ん中にぽつんと建つこの家は、浮島のようだろう。おそらく、咲保の『場』は一間ほど先にある竹垣までなのだろうが、広々とした眺めに狭さを感じない。黄昏に似た明るさの中で、海を眺めるようだった。初めて見る風景なのに、どこか郷愁をさそわれる。いつまでも眺めていられる気分だ。自然と身体の力も抜ける。

「直接、敷地の外には出られない?」
「えぇ。そう出来ればいいのですが、そこまで広げるほどの力量がございませんので、風景を借りているだけです。あちらに行きたければ、一旦いったん、『道』に出るしかございませんわね。明るさも変更できればいいのですが、力不足で。時間の流れを調整するだけで、手一杯ですわ。やはり、モノのように自在に作るとはいきませんわね」

 『場』の時間は通常の時よりわずかに緩やかに設定してあるのだ、と答えた。火打石が音をたて、行燈あんどんにあかりが灯された。

「ああ、いや、良い眺めだね」
「ありがとうございます」
「向こうからは、この家は見えない? 入るまでは、『道』からもぜんぜんわからなかったけれど」
「ええ、そういうものですから。どうぞ足を崩して、お好きに寛いでくださいませ」
「ありがとう。けれど、いいのかな、こんな個人的な場所に入れてもらって」
「かまいませんわ。まるおもいますし、父もたまに使っていますから。梟帥さんのお父さまも、いらしたことがあるんじゃないかしら?」
「えぇ、親父め……」

 そんな話は聞いたことがないが、会談内容を想像するだけで恐ろしい。

「熾盛家にお邪魔しても、使用人の方もいらっしゃるでしょう。結界を張るわけにもいかないでしょうし、変な噂になっても困りますもの」
「ああ……」

 言われてみれば、と納得する。個人的に嫁入り前の女性を連れて帰れば、使用人の中には仲を勘違いする者がいないとも限らない。となれば、妹の同席は不可欠となり、それはそれで話せることも話せない。配慮不足だったと反省した。

「もちろん信用できる方ばかりでしょうけれど、用心に越したことはございませんわ」
「そうだね。今はおちおち本音も言えないし」

 確かに、家の中で話す時も、内容によっては人払いをした上で結界も張る。嫌な世の中だ。周りに気を使うばかりの息苦しさに、疲れも倍増する。
 茶が運ばれてきた。机がわりの小さな台に乗った、ころんと丸い梅の花柄の湯呑みが可愛らしい。

「どうぞ。茶も水も現世のものを使っておりますので、ご安心くださいまし」
「ああ、ありがとう」

 もとより疑ってはいないが、ひとくちすすって唇を湿らせた。深く息を吸って、吐いた。

「それで、さっきの話の続きだけれど」
「はい」
「僕個人の見解だけれど、以前から言われてきた伏原ふしはら家に降りた託宣たくせんは、ほぼ確定だと思う。来年には、また戦争が始まると思う」
「……私もそう思います」

 咲保も静かに頷いた。
 


←<前頁>  <次頁>→