夏の六本木で、私は一度死んだ。【バズアート部7月度活動】
こんにちは。株式会社サイバー・バズの会社公認部、バズアート部です!
今回は、7月の活動報告。7/21(日)に、「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」に行ってきました!
クリスチャン・ボルタンスキーって、誰?
クリスチャン・ボルタンスキー(1944年9月21日-)は、フランスの彫刻家、写真家、画家、映画監督、現代アーティスト。1944年にナチス占領下のパリで生まれ、改宗ユダヤ人であった父親は家の床下に隠れ住んでいた。その経験から、作品は「ユダヤ人弾圧」「強制収容所」「ホロコースト(大量虐殺)」などの影響が色濃く、「生」と「死」を題材にしたものが多い。
選挙のため、サクッとランチしてから、NACTヘ
今回は選挙当日ということもあり、まだ未投票のメンバーのため、先にランチを食べてから、美術館に向かうことに。(前回は美術館の後、アメ横飲み)
Nくんが選んでくれた、六本木のパスタ屋さん「KNOCK 六本木本店」へ。
(安定のTくん二日酔いのため遅刻… …)
部長C、Nくん、Yさんの3人で、豪華ランチをシェアして食べました。
バズアート部、初の現代アートの展示に面喰らう。
クリスチャン・ボルタンスキーの展示は、部長以外は初めて見るメンバーも多く、かつクリムト展とは違い、解説がほぼない現代アートの展示(自分で考えなさい、解釈は自由だよ、というのが現代アート)です。
※現代アートについてざっくり解説。1917年にマルセル・デュシャンというフランスの芸術家が、「泉」という作品を発表。それは、どこからどう見ても「既製品の男性用便器」であり、観客が「なにこれ?アート?」とびっくりします。作品を通して、彼は「アートって言えば便器もアートになるんだろ?それって危険じゃん。もっと考えろよ!」と伝えます。ここから、現代アートの基本ルールは、「新しい思考の創出」=「自分で考えろ」となりました。これに対し、デュシャン以前の古代・中世・近代アートは、「見た目の美しさ」を重視していました。
そのため案の定、訳のわからない展示と、それでも感じてしまう強い「死」をモチーフにした雰囲気に、若干面食らいつつ、見終えた後はクラクラしていたようでした。
今回は、撮影OKのスペースがあったので、写真を交えながら、その雰囲気を共有します。
この人たちは、もういないのか。あれ、私今どこにいるんだっけ?
撮影OKの奥のスペースは、彼のバッググラウンドである「ナチス政権下の
フランス」「ホロコースト(大量虐殺)」を感じさせる、よりメッセージ性の強いインスタレーション群となっていました。
説明がなくても、これをかつて着ていた人たちは、もう存在しないことを感じてしまう「黒い服の山」。
その上には、不慮の事故など、さまざまな理由でなくなった人たちの写真(新聞などから引用してきた)をぼやかして、プリントしたタペストリーが天井から無数にぶら下がります。
この2つのインスタレーションが同じ場所にあることにより、こんな錯覚が起きます。「この黒い服が、この人たちの服で、この人たちはもうこの世にいないんだな」、と。
そこで、ハッとするんです。「あれ、私って今、どこにいるんだっけ?」
そうか、私は死んでしまったんだ。
不思議なんですが、どこにも解説がないのに、悟ってしまうんです。「あぁ、ここは死後の世界なんだ」と。だから亡くなった人が、みんないるんだ、と。
黒い服の山をぐるっと囲むように、黒い服を着たライトの人形が、あちこちにいます。
近づくと、こう囁いてきます。「聞かせて、一瞬だった?」「聞かせて、苦しかった?」「聞かせて、光は見えた?」……
なにせ、自分が死んでしまったことに、さっき気づいたのですから、苦しかったのかも、光が見えたのかもわかりません。
「ふーんなるほど、これが死後の世界ってやつか」「死んだら行くのは、天国でも地獄でもなくて、こういう場所なわけね」
いざ死んでみたら、意外と冷静な自分を発見しました。
そのまま展示室の外(この世)に出たら、心なしかみんなの顔色が悪かったです。(みんな、あの世から、ギリギリ生還したのだから、まぁ仕方ないです)
無事に選挙に行けたことを祈ります。
「生」のボルタンスキー、「温かい」ボルタンスキー
余談になりますが、「クリスチャン・ボルタンスキー」という芸術家は、日本に作品が多数あったりします。
こちらは、アートの島で有名な「直島」の海辺にぽつんと小屋がある、「心臓音のアーカイブ」という作品。
さまざまな人の心臓の音を録音して、真っ暗な空間で、それをライトとともに大音量で流している、こちらは「死」よりも「生」を感じる作品です。
(自分の心臓音を録音して、提供することもできます)
また、7月末に、部長が毎年呼んでいただいている「大地の芸術祭」開催前のプレスツアーに、今年も参加してきましたが、こちらにもボルタンスキーの作品が多数。
大地の芸術祭に、ボルタンスキーは、もう16年ほど参加しているのだそう。
廃校となった小学校を丸ごと使ったインスタレーション「最後の教室」は、「死」の国立新美術館とも、「生」の直島とも異なっていました。
今は亡くなってしまった人の絵(音楽室にある音楽家の肖像とか)を「真っ黒な板」で表現する手法には、ちょっとゾクっとしましたが……
光や空間の使い方から受け取る印象が、「かつて小学校にいた生徒や教師を想い偲ぶ」ような、「生」や「死」を強く表現する他の展示とはまた違った、温かみを感じる作品群でした。
作品を見るのではなく、作品の中にひたってほしい。
「作品を見るのではなく、作品の中にひたってほしい。全てを理解する必要はない。何かが起きているということを感じてほしい」
と、ボルタンスキーは語っています。
現代アートは、誰もがパッと見て同じ感想を持つ性質のものではなく、「わけわからん」と毛嫌いされることも多いのですが……
その実際は、「自由に考えて、楽しめるエンターテイメント」だったりします。正解がないので、どんなふうに楽しんでもよいのです。
いろんな人が、現代アート、その他のアートに興味を持ってくれたらいいなと願いつつ。
バズアート部、7月の活動でした。