サブカルが一軍だった平成初期の話④〜ヤンキーとギャルの間で〜
小中学生の時に女子大生ブーム、高校卒業したら空前の女子高生ブームという狭間の時代を生きたポスト団塊ジュニア世代の中高生時代の様子を伝えるために書き始めたnoteももう4回目!毎度文字数が5000オーバーで長い。
自分自身は書いてて楽しいし、今まで読みたかったのに世の中にあまりなかった内容なので自分で何度読み返しても楽しい。人に読んでもらえるともっと嬉しい。
引き続きおもむくままにしたためていくぞ。
中学2〜3年生時代(1991年~1992年・平成3年〜4年)の文化
先輩の圧により様々なオシャレ封じ込みを食らった1年生期間を過ぎ、中2の夏には憎い旧2年(3年)が部活引退したことで体操服の着こなしも比較的自由度があがり、かつ、女子は成長期が落ち着き成人身長に達する子が多くなる。
小学生の延長感が強い1年生時は友達同士でSUZUTANに買い物に行って流行デザインの服を買ってみても微妙にサイズ感が合わず、お母さんにジャスコで買ってもらった140~160サイズの子供服のほうがしっくりきがちだが、2年生になると成人用の服が普通に着れるようになってくる。
・制服
注文用に廊下に貼り出された私たち2年生の秋の遠足写真を見た部活の3年が「私らがいないとこではこんなにスカート短くしてんのかよ」、と言っていた話が記憶にあるので、1990年の秋にはもうスカートは短かめにするものであり、でも校内では3年や先生の目もあり校則通りにしていた。1990年頃は、基本写真ってまだまだイベント時にしか撮らないので、普段の日常風景ってほとんどないんですよ。
ただ、1軍女子が競ってスカートを短くしていたというわけではなく、スカートを短くするのも系統があった。
校則通りの丈だと足が太く見えるし可愛くないからというバランス重視タイプと校則通りはダサいし真面目に見られるのが嫌だから短くするタイプ。
後者はスタイルがよく足に自信ネキの場合が多く、少し前ならヤンキーで後の世ならコギャル方向になっていたであろう大人っぽい系の女子に多い。ただまだルーズソックスもない時代のため、雰囲気はヤンキーに近かった。
そして私の中学校では、バランス重視でスカートを短くしている前者のタイプの子が一軍であった。セクシー系よりキュート系。
これはたまたま我が校がそうだったともいえるし、ヤンキーっぽいのがダサくなり、でもギャルにはまだ早い時期であり、キョンキョンやゴーバンズなどのキュートポップ路線が平成のオシャレイメージになっていた時期だったというのもあるのだろう。
あと、流行をわかってても思春期の女子中学生、足の産毛や太さのコンプレックスで足を出したくない&出すのに勇気がいる子も普通に多い。まだ、みんながみんなスカートを短くしたかったという感じではなかったと思う。
スタイルが良かったり、肌が綺麗だったりといった生まれ持った資質は、頓着なく流行を追うためのアドバンテージになる、つまり1軍女子の資質であるよな。
確か靴下は校則で白オンリー(ワンポイントやラインもダメ)だったのもあり、あまり記憶にない。三つ折りか一つ折りかとか折らないとか?なんか、足首の後ろの筋を見せると細く見えるとかですっごい短い靴下が流行ってた時期があった気もするが定番まではいっていない。
中3の時にクラス1オシャレな子がクシュクシュソックスを履いてきたことがあったが、バランス的にあまりしっくりこなかったのか結局それも広まることはなかった。当時、制服では無くLAギアのスニーカーなどに合わせる靴下としてすでにルーズソックスの前身であるクシュクシュソックスはあるのはあったのだ。
体操服に関しては、我が中学校独自文化なのか、彼氏がいる子は首元のV部分をほどいて開けるという着こなしがあった。
夏の制服のシャツも首が詰まったカッターシャツよりも開襟シャツのほうが位は上だったので、その流れなのだろうか?
男のワルっぽさを表現するためのダラしなさ(上履き踏んだりシャツの裾を出したり)みたいな感じで、女のイケてる感を表現するための露出部を増やしてエロっぽさ演出なのかもしれない。これは上の先輩から代々引き継がれていたのでヤンキー文化が元にありそうだ。
・恋愛&性事情
中1時点で付き合ってる子達もいたが、第一次カップルブームは中2の林間学校前だ。林間学校前に告白してカップルになり、キャンプファイヤーの時に輪から抜け出す…みたいな慣例が確かあった。
カースト上位の一軍だけの話…というわけでもなくわりと普通グループからもカップル誕生はしてた記憶だが、縁がないほうが多数派ではある。そして林間学校後、わりと簡単に別れたりする。
ここから少し、テーマと関係ない話なのだがどうしても書きたいので書く。
中1の頃「処女と非処女の見分け方」として「好きな人に見られるなら、自分のう◯ちとお尻の穴、どっちがいいか」というのが流行り、完全処女集団だった軟式テニス部女子達(もしかして非処女もいたかもしれないが…)は、「そんなのう◯ちのほうがまだマシに決まってる!お尻の穴なんてそんなの絶対恥ずかしい〜〜」という意見でまとまっていた。しかし確かにそれは逆転するものだということは非処女になってわかるものだと思う。
②の雑誌についてで述べたように、女子も小学生高学年頃から性に興味津々で読者の初体験談が載った雑誌を回し読みするようになる。ちなみに私も小学校卒業の春休みにクラスの女子6人くらいで友達の家でお泊まりした時は夜にみんなでエロ本自販機にエロ本(普通に男性向けのヌードが載ったやつ)買いに行ったし、中1か2の時にテニス部の子達何人かでお泊まりした時も夜中みんなで「おとなの絵本」(お色気深夜番組)を見た。そういった昭和の男子中学生あるあるは、女子でもやっている。
ただ、このようにエロに興味があっても、早く初体験したい!というのはまた話が違ってくる。もちろん妊娠が怖いとか痛そうで怖いというのはあるとして、好きな人に体をみられたくないからしたくない、という拒否感をもつ子は多かった。片思い中での想像の中でもそうだし、両思いになったらなったで「背中にブツブツあるから」「胸が小さいから」「毛深いから」とかの理由で好きな人に嫌われるのが怖くて拒んでる子っていうのはいた。もちろん友達にそういう話をなにもせず色々経験済みって子もいたろうが、中高生時代の友達の話を色々思い出すと、女子の貞操観念は自分の体に自信があるかないかってのはかなり大きい要素だと感じる。
自分の2学年上のヤンキー臭が残る世代の1軍先輩方には、中1時点で先輩や高校生等になかば強引にヤラれたのが初体験という人も多く(そういう話を聞かされる)、卒業後10代で妊娠出産した方も多いのだが、私の世代は私が知る限りそうではないし、1年生の時に誰か先輩が妊娠したとかでカンパの袋が回ってきたことも覚えてるが(実際は妊娠は名目で単なるカツアゲだったのかもしれない)我が学年の女子はそんなカンパ行為をしたこともない。客観的にもこの2学年間の文化の違いは大きく、部活でも明らかに私たちの世代から後輩に対して高圧的ではなくなったと自信を持って言える。
・私服
交際したり初体験したりといった者共は多数派ではないとはいえ、中2〜3年で色気付いてくる子は自然増えてきて、お母さんが選んだジャスコの子供服なんて着てられない、となってくる。
我らの学区内には小さな商店街しかないけど、電車で一駅・自転車でもいける範囲内に中心街がある環境であった。
そして私たちが中学生の時、この中心街にある中高生が集まるような商業施設の中に一軒尖ったセンスのお店ができた。できたというか、もしかしたら前からあった店が置くものの傾向を変えたのかもしれないがその辺りわからない。
とにかくそのお店には、個性的な洋服とキュートでポップな雑貨がたくさん置いてあり、雑誌のCUTiEでみる「東京」の雰囲気を感じるものであった。
wikiによると、雑誌「CUTiE」は1989年に「宝島」の女の子版として創刊し1990年頃まではDCブランド、1990年代からはストリートファッションの流れを作った、とある。やはり自分の印象とも一致するが、なんとなくハードルが高くスタイリッシュな雑誌から、ストリート キッズ・コレクションという街の若者をたくさん載せる企画を前面に押し出した賑やかで個性的な雑誌になり、地方中学生にとっても非常に気になるものになっていた。
この尖ったセンスのお店には、MILKやBETTY'S BLUEの洋服にシン&カンパニーの雑貨などが置いてあったかと思う。正直服に関しては、そこまでファッションに詳しいわけでもない自分には高いし着こなせないしでなんのブランドがあったのか覚えてないが、このお店っぽさが当時の中学生のオシャレ最先端であった。
1990年のCUTiE誌面に、シン&カンパニーが買える全国の店という記事があり北から南まで多くのお店がリストアップされている。記事を見る限り、どうやらこの時期全国的に、個性的な雑貨や洋服がゴチャゴチャ並ぶ中高生が集まる店というのがあったぽい。この辺りまた暇があったら調べたい。
まぁ実際に一軍女子の私服がこの系統をバリバリ着こなしていたかというと、やはりそこは地方公立中学生、そんな金もセンスもある子はそうはいないし、日常的に着るわけではない。
バンドブーム×ストリートファッション萌芽×厨二病を掛け合わせた、CUTiEっぽいファッションを中学生向けに落とし込んだような服装がクラスのメインストリーム層のものだったという感じだ。
また、TVの中の女性アイドルはダサいものになっていたので、女子中学生が憧れたり真似したいオシャレの見本というのはTVではなくファッション誌の中のモデルや読者となっていた。
中2〜中3になると、読むファッション誌も高校生向けにパッケージングされたものを好むようになる。CUTiE系は憧れやハレの日のものって印象で、実際のリアル路線としての王道はプチセブンがこの頃最も人気だった。
・雑貨
前述の尖ったお店の洋服は値段的になかなか買えないが、キッチュでポップな雑貨類は中学生にも手が出せる。
シン&カンはタグがついてブランド然としていたので把握できていたが、そのお店で扱ってた他の雑貨がどこのものかよくわかってなかった。今考えると文化屋雑貨店・大中・宇宙百貨あたりに売っていたものと同じようなものがセレクトされていたのかもしれない。私の地元にはそれらの名前がついた店はなかったし、中学生の時にそれらの雑貨店のことは知らなかった。
そして一軍女子の持ってる文具や弁当箱や巾着などがサンリオやサンエックスから変化していった。確かクラスのオシャレな子がシン&カンのアトムのポーチを使ってた。
また、S・PAPA(エスパパ)の文具を使っていた子がいて、それもすごくオシャレだった。エスパパから生まれたミスター・フレンドリーというキャラ名のほうが通じる人が多いかもしれないが、私たちはそれも含めてエスパパと呼んでいた。エスパパのデザインは海外雑貨ぽさがあり(というかそう思っていた)、サンリオなどキャラ雑貨に比べ大人っぽくオシャレに映った。
ちなみにその頃、地元にはソニプラのような海外輸入雑貨を扱うお店はなかったし、ソニプラが女子高生に爆発的に流行るのはもう少し後だと思われる。
染谷淳一さんのいわゆるPATi-PATi文字と、このエスパパ等の雑貨デザインは、中3の頃の私たちのイラストや描き文字にもかなり影響を与えた。
③で書いたいくえみ綾漫画等の描き文字に加え、この辺りの影響で丸文字から細長めで尖りのあるヘタウマ文字になっていったり、手紙にかく飾り文字や囲み文字デザインが変化していった流れがあると思う。
雑貨も、丸っこい・可愛らしい・ファンシーより、尖っててカッコよくてスタイリッシュなものがイケてるとされた。
私もオシャレな子たちの影響を受けて、例の店でプラスチック製でフタ部分の中にミニカーが入ったおもちゃみたいな謎の筆箱を買ったり、ミスドでもらえる弁当箱から、アルミ製で蓋にレトロな絵が入った弁当箱にしたりしていた。
このあたりの写真がまるで残っていないし、それが伝わるような情報もネット上にはほとんどないのが残念だ。また時間があったら当時の雑誌を調べたい。
このように、他の中学ではどうかわからないが、1991年・平成3年頃の我が中学での一軍女子はヤンキーでもギャルでもない、後の言葉でいうなればサブカル系であったのだ。
そしてその時代は、私が高校生になっても続くのである。
中学生編、まだ書きたいことはあるが5,000字越えたしとりあえず終わり、次回から1992年以降の高校生編に入りたい。
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