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南朝の拠点だった宇治山田(石水博物館「結城神社の至宝」展を見る)

今ちょうど、石水博物館(せきすいはくぶつかん)で開催されている「結城神社の至宝」展に行ってきました。ただし、全国の多くの方は、石水博物館も、結城神社も、よくご存じないかもしれません。

これら2つは三重県津市にあります。かつては安濃津(あのつ)と呼ばれ、伊勢湾の海上交通の要衝であり、また、全国から伊勢神宮を目指す伊勢街道の結節点に位置する土地。江戸時代には藤堂藩32万石の城下町として、明治期以降は三重県の県庁所在地として繁栄してきました。
この津市で創業されたのが地方銀行である百五銀行で、創業者一族の川喜田半泥子(はんでいし)は銀行家の名士として、また自ら作陶する陶芸家として有名でした。彼のコレクションを展示する博物館として作られたのが石水博物館です。

一方の結城神社は、鎌倉時代末から室町時代初期(いわゆる南北朝時代)に、後醍醐天皇方(南朝方)の武将として信任が厚かった結城宗弘を祀った神社です。
ただし創建は比較的新しく、江戸時代の末期。異国船がしきりに沿岸を航行するようになり、西欧列強への危機感を持った支配層が国家主義である尊王思想を高めるようになってきた時期です。藤堂藩主が藩内の危機意識強化を図るため、数百年前の南朝方の忠臣であった結城宗弘の霊を勧進して建立されたのが結城神社なのでした。
元々は奥州を本拠地にしていた結城宗弘が、遠く離れた伊勢国の津に祀られることになったのは、次のような逸話によるものです。

鎌倉幕府を討幕した後醍醐天皇らによる建武新政は、なかなか安定することがなく、討幕の功労者であった足利尊氏が後醍醐方と反目するに至って、南北朝の内戦が日本中で繰り広げられることになりました。
結城宗弘も南朝方の北畠顕家らとともに足利軍と戦いますが、延元3年(1338年)に石津の戦いで敗れ、宗弘は南朝の御所があった吉野へ敗走しました。
その後、南朝軍を再集結させるため、後醍醐の第7皇子、義良親王(後村上天皇)を奉じて北畠親房らと共に、伊勢大湊(現在の伊勢市大湊町)から船で奥州へと出帆します。しかし途中で荒天に見舞われ、船は遭難。篠島(愛知県南知多町)に漂着し、渡航は失敗に終わりました。
伊勢に戻った宗弘は、この年の冬に死亡します。

史実は以上なのですが、太平記に、宗弘が漂着したのは篠島でなく安濃津であったと物語られたことから、宗弘が没したのは現在の津市藤方の(阿漕浦とした有名な)海岸であったとの伝説が広く膾炙しており、江戸時代には「結城塚」なる遺構もあったそうです。このため、南朝の忠臣を祀るにふさわしい場所として、現在の結城神社の地に建立されたのでした。江戸時代末期の文政7年(1824年)のことです。

実際に宗弘が没したのは、伊勢国山田(現在の伊勢市)であったと推測されています。伊勢神宮があった宇治山田は伊勢国における南朝の拠点であり、宗弘の墓所も、山田の有力寺院であった金鼓山光明寺の境内に残ります。

さて、津藩が創建した結城神社は、明治になると別格官幣社となって壮麗な社殿が建設されました。南朝や結城家にまつわる史料や武具などが多く奉納され、社殿は太平洋戦争時の空襲で焼失してしまったものの、宝物は現在まで伝えられており、石水博物館で目の当たりにすることができます。
チラシには、宗弘が佩刀したと伝わる 銘盛重 の刀が大きく載っていますが、実際には刀は4本の展示のみでちょっと拍子抜けしたものの、後醍醐天皇の綸旨や、豊臣秀吉の書状など貴重な資料を見ることができるのでおすすめです。

ただし、いくら南朝方の忠臣とはいえ、血で血を洗う戦乱の世で戦いに明け暮れていた武将が結城宗弘その人です。豪胆な英傑ともいえるでしょうが、太平記が伝える宗弘(結城道忠)は、今の規範では絶対に理解不能な、常軌を逸した残虐な人物でした。太平記の「結城入道堕地獄事」には以下のようにあります。

道忠(宗弘のこと)が平生の振舞をきけば、十悪五逆重障過極の悪人也。鹿をかり鷹を使う事は、せめて世俗の態なれば言ふにたらず。咎なき者を殴り縛り、僧尼を殺す事数知ず、常に死人の首を目に見ねば、心地の蒙気する(気分が晴れない、の意)とて、僧尼男女を云ず、日毎に二、三人が首を切て、態目の前に懸けせけり。

もちろん、これが事実かはわかりません。しかし、歴史上の人物には明暗の両面があることを、現代の私たちは学ぶことができます。


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