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斎宮跡発掘説明会に行ってみた

伊勢神宮に詳しい方なら、斎宮(さいくう)についてもよくご存じかも知れません。
現在の伊勢神宮は「日本の総氏神」として一般大衆が多く参拝に押し寄せる観光地のようなイメージですが、飛鳥時代の7世紀から鎌倉時代の14世紀ごろまでは全くそうではありませんでした。天照大神の神威を恐れた崇神天皇が、皇居から遠ざけるために伊勢(宇治山田)の地に祀ったのが伊勢神宮・内宮なのですから、天照大神の御霊を鎮め、この世に災いがもたらされないようにすること、皇室が安泰であることを、ただひたすら祈る場が伊勢神宮でした。
一般大衆の崇敬など全く何の関係もない、純粋な朝廷の祭祀機関だったのです。

そのために必須だったのが、天皇本人の代わりに伊勢神宮での重要な祭祀に臨席する斎王(さいおう)の存在でした。
斎王は原則として天皇の代替わりごとに未婚の皇女が占いで選ばれ、潔斎精進を経たのち都から伊勢国に派遣されました。伊勢神宮は神聖かつ神威の非常に強い場所だったので、10km以上も離れた多気郡(現在の三重県明和町斎宮)に斎王が住む斎宮は置かれました。
斎宮は斎王の衣食住すべてをまかなうところで、その施設は広大かつ壮麗。多くの官人が仕えた、さながら都のミニチュア版で「多気の都」とも呼ばれたそうです。

しかし斎王は、南北朝時代になって天皇の権威が決定的に失墜したことで、制度自体が消滅してしまいます。
栄華を誇った多気の都もいつしか人々から忘れられ、土地は耕地となり、建造物は全く失われて、地下深くで永い眠りにつくことになります。

もちろん斎王や斎宮自体は源氏物語や伊勢物語などにも登場し、後代に伝えられていたため、「この付近が斎宮跡である」ということは、当時から世の中に広く知られてはいました。しかし、発掘調査により考古学の検証が行われるようになったのは、戦後の昭和40年代になってからのことです。三重県も付近に斎宮歴史博物館を建設して、本格的な調査研究がおこなわれるようになりました。

発掘調査は数十年にわたって営々と今も続いており、このたびの第205次調査では、奈良時代の斎宮(東正方位区画)の「正殿」、すなわち斎王が起居していたと思われる中心建物の跡が発掘されたそうです。

斎宮歴史博物館現地説明会資料より
斎宮歴史博物館現地説明会資料より

現地説明会では、この奈良時代の正殿は、斎宮跡の他の建物跡の中でも最大規模であることや、前殿と後殿の2棟を相の間で繋いで一体化した、一般的には「八幡造」と呼ばれる建物の形式と推定され、こうした構造は全国でも例がないことから、伊勢神宮に仕える皇女「斎王」のための特別の建物だったのではないかとのことでした。

説明会でのお話でも、奈良時代の斎宮ひいては伊勢神宮が、いかに朝廷から重要視されていたかがわかります。天皇に代わって天照大神と向かい合う斎王の責任と使命感も、今では想像できないほど重要なものだったでしょう。

斎宮と斎王については、斎宮歴史博物館で詳しく学ぶことができます。
せっかく伊勢に来られたら、ぜひこうしたあまり有名ではないけど歴史のある斎宮にも立ち寄っていただければと思います。


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