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「自分の不幸も蜜の味」だったりする。

ふと数年前の自分を思い出すと、いつでもどこでも不幸の中にいて、涙がポロポロと頬を伝う日々。そしてその涙の温度に心が酔いしれ、また不幸に陶酔してしまう。不幸であることを無意識の中で求めてしまい、何があっても自分のせい。私が不完全で未熟だからと自分を責め立て、また不幸の中に浸ってしまう。幸せなことがあったとて、幸せを感じることにストレスを感じ、喜ぶことさえ自分に許さないという正に正気の沙汰ではない日常。何をしていても悲しいのだと友人に言ったらこう言われた。「自分が不幸であること自体に、喜びを感じてるんじゃない?」と。

「人の不幸は蜜の味」とはよく言うけれど、「自分の不幸も蜜の味」だったのだ。

そこで何となく目が覚めた私は、家でも電車でもトイレの中でも、そしてカフェでお茶をしている間でも流していた涙を一旦止めてみた。悲しい気持ちをトクトクと自ら湧かしていた心の中を砂漠化してみた。まず、悲しい気持ちを忘れるために、「無」になってみたのだ。目の前にある美味しいカフェラテに集中してみた。ただそれだけ。飽きてきたら延々と食事をする人のYoutubeを観てみたり、ぼーっと音楽を聴いたりしていた。その間、「悲しい」や「不幸」という気持ちを忘れる努力をしてみたのだ。「無」になるのもなかなかの努力を要し、たまに「悲しみの沼」への揺り戻しもあったけれど、泣く回数は大幅に減っていった。

今朝、私は太陽に当たりながら一人で幸せにニヤつきながらアイスラテを飲んでいて「そんな時期があったな~」と突然思い出した。もう私は自分の甘美な不幸をなめながら涙を流すことは無くなった。勿論悲しい出来事があれば遠慮なく泣くけれど、わざわざ自分の記憶をたどって、過去の悲しみを何度も感じ、味わい直すことなどもう無くなった。「自分の不幸は蜜の味」では無くなった。

もしかしたら私と同じように、自分の不幸を美味しく楽しんでいることに気づいていない人がいるかもしれないと思い、何となくこのnoteを書いてみた。過去に引き戻されて泣く日があっても良いけれど、今に立ち返り、太陽の眩しさに涙する方がなんて幸せなのだろうと、じんわり感じたのでした。

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