レヴィ・ストロースの『火あぶりにされたサンタクロース』を読み、渋谷ハロウィンを考える

『火あぶりにされたサンタクロース』クロード・レヴィストロース著・中沢新一訳/解説

サンタクロースというのは何者なのか?
サルトルが寄稿依頼をした本文献では、異教徒とキリスト教会の折衷、贈与世界という宇宙観を絡めながら説明していく。
クリスマスを考える上で、異教徒的な宇宙観でこの時期がどのように考えていたのかを抑えておきたい。秋から冬至にかけては、太陽の力が最も弱まる時期であり、多くの死者の霊が生者の土地に来訪すると考えられていた。生者は彼らに対して、様々な贈与を行うことで、冬至までの間に死者の世界に帰ってもらうよう懇願する。(ざっくりすぎるかもしれないが、日本でいうお盆に近いだろうか)
その中で、死者に対して確実に贈与を行ったことを人々が認識されるためには、何者かが死者の代理とならなければならない。それが、未だイニシエーションを受けておらず、社会の成員として認められていないマージナルな存在たる子供や若者であった。古代ローマのサトゥルヌス祭では、この時期に、一切の身分や秩序を廃したヨコの連帯(無礼講)と若者組や子供組の組成というタテの分断が二つのダイナミズムとして現れる。前述の通り、若者組や子供組は死者の代理であり、子供組は死者の仮装をして生者やの世界に対して贈与を懇請する。(ハロウィンの風習である。)一方、若者組はその膨大なエネルギーを余ることなく使い果たし、放蕩や乱暴の限りを尽くす。このような、死者の代理としての、若者や子供に対して、生者として歓待し、贈与を行うことで、死者に対しての義理を果たし、次の秋までは現れないという確約を取り付ける。これが異教徒的な秋から冬至までの解釈である。
果たしてキリスト教会は、この太陽の力が弱まる時期=闇の時期に未来の救世主が誕生するというキリスト降誕の世界観を接ぎ木することで、異教徒的世界観を同化し、吸収したのであった。同時にキリスト教会は、この若者・子供たちの暴動と大人たちの歓待という厄介な冬まつりを引き受けねばならなかった。
このような厄介な冬まつりの伝統は、フランス革命に端を発する近代のエートスと啓蒙のムーブメントの名の下で、糾弾され、消滅していった。近代のエートスは社会から死者=他者=若者・子供という外部を徹底的に内部化していった。そして、啓蒙の名の下で、子供や若者は教育の対象として暴動や贈与の懇請を行うことを拒絶された。そして、それは近代社会の出現とともに、人間にとって「死」という存在が恐怖を感じるに足る存在ではなくなったことを意味しており、「死」への畏怖の減少は、子供・若者への畏怖の減少となり、彼らは都合よく社会に吸収をされていった。さらには、贈与という観念すら、商業主義の波の中に併合されかけていった。
しかし、贈与がもたらす人々への霊的な繋がりや、人々の深層心理に潮流する秋から冬至にかけての生命力の弱まりを、完全に駆逐することはできなかった。そこで、近代社会は、子供や若者を自らの内部においておきながら、彼らに贈与を行う外部から到来するイマジナリーな存在を要請したのである。それがサンタクロースである。サンタクロースは近代社会の中で、手を尽くしても駆逐することのできない「死」という外部の存在を鎮静化する為に、資本主義の中で、人々が深層心理で欲望する「贈与」を代理表象するために、生み出された想像的な外部である。まさしくチャールズ・ディッケンズがクリスマス・キャロルをして描こうとしたのは、資本主義精神を徹底的に身に着けたスクルージが、クリスマスに登場する霊的存在により、贈与により再教育され、死者に接近し、そして突き放されることで生命力を賦活される物語なのである。ここに、サンタクロースの出自が描かれるのである。

この本を読んでいて思うのは、ハロウィンの起源も、基本的には子供を通じた死者への贈与と歓待であることである。そして、ハロウィンにおいて、昨今社会を騒がせている問題が、渋谷の若者の暴動であるだろう。この本を読んで思うのは、所謂「渋谷ハロウィン」なる若者の暴動は、死を恐れず、贈与をせずに富を滞留させている現代社会のエスタブリッシュメントに対する死者の怒りを若者が代理表象しているのではないかという一つの見方である。
これはいささか都合のよすぎる解釈かもしれない。渋谷ハロウィンで仮装し、酒をのみ暴れまわる人々は、人々が集まり、愚行の限りを尽くして、社会外部の復権と贈与の復興をさせようとしているわけでない。しかし、本書を読んで、サンタクロースの召喚までの道のりを概観するに、そのような行き過ぎた発想も看過されても良いものではないかと思い、ここに記すのである。

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