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平凡コンプレックス

小学生の頃の夢

 授業参観日に向けて将来の夢を書いて、教室の後ろにあるロッカーのところにそれを貼り出すイベントがあった。一年に一度、娘の教室に入るという非日常に、母親たちは、自宅では見られない学校での一面を一瞬でも見逃すまいとソワソワしていた。貼り出された夢を指差しながら、「あら、〇〇ちゃん、将来は総理大臣になりたいだなんて、さすが優等生ね!」とか「弁護士になりたいなんて立派ねえ」なんて会話をしていた。子供ながらに、教室の中でその様子を見ながら胸のどこかがモヤモヤしていた気持ち--あれはある種のマウンティングだったなあと、今ならモヤモヤの理由を少し解説できる気がする。

 「平凡な幸せを手に入れたい」
 母はどんな気持ちで私の書いた札を見ていたのだろう。

"Perfect Lovers"

 現代アーティスト、トレスの作品に、"Perfect Lovers"というものがある。15年くらい前に大好きだった人に教えてもらった。それは今も、ニューヨークにあるMoMAのエントランス受付の後ろに飾られている。

 そっくり同じ工業製品の二つの時計。同じ日に同じ電池を入れて時間を刻み始めたのだけれど、少しずつ時間はズレていく。そして、先にどちらか一方が止まってしまう。エイズで恋人を亡くしたトレスが、時間という万人に等しいものが、人によってスピードや終わりが異なること、全く同じに見えても、一つひとつ時計の持っている時間さえも違うことを憂いた作品だ。

 歳を重ねれば重ねるほど、そして、色々な経験をすればするほど、たとえ同じ血が流れている兄弟であっても、双子であっても、人間は一人ひとり違うということを目の当たりにする。それに比例するように、人間を何かのラベルでカテゴライズして、「●●な傾向がある」と説明しようとすることって気持ちが悪いなあという思いも、年々強くなっている。ビジネス系雑誌で特集される”今どきOLの一週間スケジュール”、テレビドラマで描かれる”普通”のOLの生活、どれも、その人のスケジュールであり、その人の生活。同じように見えてしまうのは、ただの錯覚で、ちゃんと一人ひとりを見つめたら、似ていることなんて本当は一つもないはずだ。二十代の頃は、あんなに占いや血液型による傾向などを目を血眼にして読み漁っていたのに。おかしなものですね。

マーケティングにおける「ターゲット」設定

 マーケティングの仕事をしていると、ターゲットを職業や年齢、住んでいる地域や、意識でグルーピングして、何か一つの傾向を見つけようとするけれど、本音としては、人々は、傾向としては同じ方向を向いていても、その傾向の元にある動機は百人いれば百様、一人として同じ気持ちの人なんていない。だから平均も無ければ、一番とかビリッケツという概念だって存在し得ない。昔、「負け犬の遠吠え」という本が流行った。"結婚してるかしてないかで女の人生の勝ち負けが決まる社会"に一過言申すことで、逆に社会の定規の存在を認めてしまって、叫べば叫ぶほど、かえって世の中は苦しくなった気もするし、叫ばないとその定規はいつまでもそこに鎮座して、"世の中の普通"と言う名の"平凡"におさまるように調教されて苦しみながら生きている人たちが大勢取り残されたままになってしまう気もする。

 物差しなんて自分で作ればいいと思いながらも、幸か不幸か、社会の強者の物差しの上で生きてきたから、なかなかそのレールを切り替えるのは難しい。「平凡」と言うのは、実は社会の強者で、何の事故もなく、そのレールの上を走りきれば、それ以上に幸せなことはないと思う。だけど、そんな人、この世にいるのかなあ。きっとみんなどこかでつまづくし、つまづいたら、平凡定規の不具合に気がつくはずなのに。

 「平凡」なんてこの世に存在しない、という思いが強い分、私は「平凡」へのコンプレックスが強い。みんなもそうなんだとしたら、少し、カテゴライズの視点を変えるだけで、物差しの目盛りを変えるだけで、幸せになれる人は増えるのかもしれない。ふんわりした話で、うまくまとまらないけど、そんな感じのモヤモヤを抱えている今日この頃です。

 

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