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観てない舞台を語る: 「アングラの席捲」

やはり、この眼で観たことは無いのだが、新劇に取って代わり、60年代後半という時代を席捲したアングラ演劇から「五つの舞台」を選んで、Twitterで語ってみた。その内容を再掲するとともに、主宰者達による濃密な相互関与の俯瞰から、改めて考えた幾つかのことを、備忘としてここに記しておこうと思う。

1.状況劇場「24時53分『塔の下』行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている」(1964)

”アングラ四天王”の代表格、唐十郎氏が24歳で書いた処女戯曲。その推薦文を、なんと当時既に有名人だった寺山修司氏が書いている。曰く、”ベケットを思わせる前衛劇、劇場を飛び出し発展してゆく事を期待”と。

唐氏はこの舞台の3年後、”紅テント”による野外公演を開始し、従来の劇場を飛び出して、自身の代名詞へとしていく。げに寺山氏の予言凄まじ。

なお、唐十郎氏こと大鶴義秀氏は、明治大学文学部演劇学科と劇団青年芸術劇場(青芸)で当時王道の新劇教育を受けている。テキストは、イプセン・三好十郎・サルトル等と聞く。大学OBとして、本舞台は明治大学の学内新聞でも取り上げられた模様(下図)。

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2.早稲田小劇場「劇的なるものを巡ってⅡ」(1970)

鈴木忠志氏演出の本舞台に定型戯曲は無く、女優白石加代子氏が狂乱の演技で古今のテキストを詠み上げる形式で上演された。それも、サミュエル・ベケット、鶴屋南北、泉鏡花、岡潔、都はるみと幅は広い。

優れた”プラットフォーム”を有すれば、コンテンツへのこだわりが薄れ、寧ろ自身のプラットフォームを磨き上げたくなる、というのは現代ビジネスの諸戦略に比しても頷ける話。当時、「鈴木メソッド」という理論、「自前の早稲田小劇場」という空間、そして「怪優・白石加代子」という表現装置を揃える鈴木忠志氏はアングラ界随一のプラットフォーマーだった筈。

それを自覚してか、鈴木氏の稽古は”プラットフォーム”を磨き上げる厳しいものだったそう。役者には”厳密な演技”を求め、稽古で徹底的に苛め抜いたとか。そして当時、そんな鈴木氏の傍らで、演出助手として稽古の全てを見て学んでいたのが、後に小劇場第二世代の先頭を走る、つかこうへい氏24歳という巡り合わせ。つか演出のルーツに至極納得。

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3.黒テント「嗚呼鼠小僧次郎吉」(1971)

青山スパイラルホール、文化村オーチャードホール、世田谷パブリックシアターと数多の劇場芸術監督を歴任してきた佐藤信氏は、今やすっかり”演出家”の印象が強い。

しかし、70年前後のアングラ全盛往時は唐十郎氏と共に「天才」と呼ばれた書き手。「喜劇昭和の世界 三部作」や「鼠小僧次郎吉 五連作」等の、連続戯曲が多いのも特徴。

アングラ演劇として2番目に岸田戯曲賞を受賞した本作も、”5人の鼠”、”暮らすドブ”、”到来しない革命”、”あさぼらけの王”、など登場する概念が複雑にアレゴリーを構成する。戯曲集は手に入るが、面白くも難解という印象。

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4.天井桟敷「百年の孤独」(1981)

青森県を訪れたことはあるだろうか? もし機会があるならば、青森で訪れてほしい場所がある。青森県三沢市にある「寺山修司記念館」である。

JR三沢駅から車で20分、森の中に突然、粟津潔氏デザインによる道化の仮面が現れる。寺山氏が主宰した”演劇実験室”天井桟敷が、実際に使用した舞台美術の数々を飾る記念館だ。館内には舞台「百年の孤独」で使われた、”名前を忘れていく主人公が、家中に貼り付けた名前の板”も展示されている。

寺山修司氏だけは他の四天王と違い、新劇から続く既存演劇の流れに一度も属することなく突然現れた異端である。天井桟敷が旗揚げされた1967年、そのとき既に、寺山氏は俳人、詩人、放送作家として著名であった。

AppleがIBMを崩し、テスラがトヨタを下し、Fortnite(Tencent ?)がAppleを倒そうとする時代に居る我々だからこそ、故・扇田昭彦氏が寺山氏について書いた以下の文章の意味がよくわかるのではないだろうか。

「寺山は演劇を演劇として成立させる制度に異議を申し立て、その批判作業自体を演劇化した。彼は演劇の外にあるものを演劇の中に持ち込み、逆に演劇の内部にあるものを宙づりにしたり、外部に持ち出したりした。こうして彼は従来の演劇の価値基準では評価しがたい、これまでの演劇の枠からは大きく逸脱した『演劇』を作り出した」(『日本の現代演劇』, 1995, p.157)

記念館裏の小山には散歩道が続き、寺山氏が詠んだ俳句の句碑が並ぶ。登れば目の前に、霧すさぶ湖と森とそして基地が見える。四天王随一の有名人が産まれた土地をしばし眺めるのも、趣深い。

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5.早稲田小劇場「マッチ売りの少女」(1966)

別役実氏は”アングラ四天王”ではない。そればかりか、1960年代の当時から氏の戯曲は、文学座や俳優座、そして劇団青俳といった”新劇”の劇団によって上演が重ねられてきた。しかし、なおそれにも関わらず、”書き手”として60年代を圧倒的にリードした別役氏抜きに、アングラの時代は語れない。

”不条理劇の第一人者”と、言われる。一般には、非論理的な展開やとりとめのない会話が続くと想像されるだろうが、本当にそうかと言うと・・・・・・例えば本作の最後の場面では、戦後の闇と狂気に翻弄された人間の”条理”が克明に描写される。”元・マッチ売りの少女”のリアルが、吐き気を催さんばかりに立ち上がり、観客は涙してしまう。

なお、三十を少し出た頃の別役氏は・・・・・・物凄いインテリ・イケメン。

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まとめ: 「アングラの席捲」を俯瞰しての備忘録

以上の舞台を作り上げた、”アングラ四天王及び別役実氏”の60年代年表を作成してみた。五人に加えて、新劇世代の三島氏や丸山氏、小劇場第2世代のつか氏も加えてみた。以下の通りである。

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目に付くままに記すと、

寺山氏と唐氏の関係は、寄稿文で応援したり、贈られた葬式花輪に激怒して乱闘になったりと目まぐるしい。
●鈴木忠志氏と早稲田小劇場は他のほとんどの人物と交流を持っており、この時代の交流ハブであったように見える。
●丸山明宏氏の主演を通じて、全盛期のアングラ舞台と新劇的舞台とが連続しているように見える。
●小劇場第2世代代表のつかこうへい氏も、演出的には鈴木氏の、戯曲的には別役実氏の、影響を色濃く受けている。
●登場人物の多くが岸田戯曲賞を受賞しており、文壇という権威が追認を終える1970年を以て、「アングラによる席捲」が完了したように見える。

そしてもう一つ、「五人は皆、明確な師弟関係を持たず、同世代からの挑発的刺激を受けて成長を遂げていった」点も興味深い。新劇の方法論や理論へのアンチとして産まれた彼らは、世間に対して観客に対して、自組織が拠って立つべき新ロジックを作り上げねばならなかったのだが、恐らくそれは観客のみならず、勃興する同世代を強烈に意識していたと考える。

鈴木氏の『内角の和』、寺山氏による『迷路と死海』など、アングラ四天王は皆、強烈な”演劇理論”を打ち出している。この構築の過程が彼ら自身をまた一段成長させたのは想像に難くない。

現代の企業組織が採用する幹部育成の型と比較して考えると、「師と弟子、または先輩と後輩という、縦の関係がきれいに消滅している」ことは興味深い。同格の同世代が、抜きんでる為に力づくで競い合うことを通じて成長するという図式は、伝統的大企業では見られず(必ず上職という評価者がいる為)、寧ろネットベンチャーの勃興期に通じているかもしれない。閉塞状況を打ち破るリーダー人材創出は、案外とこの時代の劇団を研究してみると有意な示唆を得られるかもしれない。

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