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「マネジメント」の語源

以前、顧客への提案の中で「ゲーミフィケーション(Gamification)」という言葉を用いようとしたところ、下打ち合わせの段階で「当社役員陣の中には聞き慣れない外来語を嫌う者もいて」と書き換えを要望されてしまった。こういう擦り合わせ自体は珍しいものでもないし、正当な要請だと捉えている。むしろ提案前に当該組織の文脈を知り得たことに感謝したぐらいである。ただ、言葉を置き換えるだけでは足らず、提案書には予想外の大手術を施すことになってしまったが。

事物ではなく”概念”を指す言葉の翻訳は難しい。結局は、自国が関心や努力を積み上げて来なかった領域だからこそ、外来語をそのまま用いているのである。既存用語での代替は成立しないし、新造語を普及させるには手間も時間もかかる。例えば、Gamificationは、”競争性”と訳しても、”遊戯化”と訳しても、原語の本質は歪められてしまうだろう。ちょうど、改善(Kaizen)を、”Improvemet”と訳しても本質が失われてしまうのと同じだと思う。

そういった「不幸にして、翻訳により其の本質が歪められてしまった言葉」の一つに”Management”があると思っている。Managementは「管理」と訳しても正しくないし、「PDCA」と置き換えても本質は伝わらない。ここでは、その「本質」について、言葉の語源から語ってみたいと思う。

1.始まりの「問い」

とある会議の冒頭で、クライアントに向けて「”Management”という言葉の語源をご存知ですか?」と投げかけたことがある。皆一様に「いや、判らないなぁ」という反応であったので、「そもそも、いつの時代に生まれた言葉だと思われますか?」と尋ね直してみると、今度は様々に回答が返って来た。「やはりドラッカーからでしょう?」「なんとなく世界大戦の頃から」「ヨーロッパの始まり、古代ローマ時代から」などが出揃った。私が「どれも残念。人類史上初めての”Management”という言葉は、16世紀イタリアで記された文書に書かれていますよ」と調べておいた知識を披露すると、皆が「へぇー、それは古いね」等と相槌を打ってくれる。ただその中で、幹部のお一人が「でも、その時代、企業は無いよね」と声を挙げた。そして、続けて「語源も興味あるけれど、会社も役職も無い時代に、何をManagement、動詞で言えばManageか、どういう物を指して使っていたんだろうね?」と半ば独り言のように自問された。まさにGood Question、この「問い」の答えこそが、Managementという言葉の語源を納得させ、Managementの本質とはそもそも何かを差し示していると思っている。

※なお、語源を示すエピソードには諸説もあろうが、以下、私が最も気に入っている説を採用して語ることにする。

2.16世紀の「Management」

16世紀イタリアで”Manegement”という言葉が指し示したのは、一つには「野生馬の馴致」である。野生の裸馬を捉え、たてがみを掴んで乗りこなし、自分の家まで連れ帰って水を飲ませるまでの(そして、もちろんその後の調教まで含めて)一連の行為をManagementと呼んだそうである。

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更に今一つは「急流渡り」である。筏のような小舟を、竿一本用いて急流の中で操りながら、川を渡って向こう岸の目的地まで上手く辿り着かせる行為を、これまたManagementと呼んだそうである。

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私自身は、これらのどちらも体験したことはない。体験したことはないが、しかし非常な腕力を必要とすることは想像に難くない。野生馬のたてがみを引き絞る手、急流に差す棹を握り締める手、かつてManagementを執る場面では「腕力」であり「手捌き」が注目された。こう考えると、Managementの語源がラテン語で「手」を意味する”Manus”であることにも納得がいく。

Managementの語源は、ラテン語で「手」を意味する”Manus”である。馴染み深い単語で言えば、"manual"も、”manufacture”も、”manner”も同じ語源である。

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3.「腕力」と「手捌き」の奥に在るもの

しかしながら、「腕力」が、「手捌き」が必要な行為だから、”Manus”から派生させて「Mannagement」と呼んだ、という理解ではまだ不十分に思える。16世紀、産業革命以前のこの時代に、腕力を必要とする行為なら山ほどあった筈である。その中で「野生馬の馴致」と「急流渡り」だけが、「腕力」と「手捌き」を注目されたのには理由が在るだろう。

個人的な見解となるが、私はその理由は3つあると思っている。「外部世界に働きかける」、「目的地に到達させる」、「行きつ戻りつを織り込む」の3つである。順に説明する。

先ず「外部世界に働きかける」について。野生馬も急流も、自然に属するものであり、乗り手の意思が及ばない領域である。いつの時代に於いても、自分自身を起点に世界を捉えれば、自己・親密者・所属集団・懇意集団等と関係性の濃度でグルーピングできると思うが、どこかで「外部世界/外部集団」が現れる。そこから先は、自身とは異なる利害関係に基づいて動く世界である。Managementは、そこに働きかける活動だから、「腕力」であり「手捌き」が必要とされたのだと考える。

次に「目的地に到達させる」について。裸馬に飛び乗って振り落とされない、急流に漕ぎ出して転覆はしない、という段階までは、(それはそれで難しいのであろうが)プロセスである。しかし、Managementは言葉として誕生した時点から既に、「家の裏の水飲み場」であり、「対岸の港町」でありという明確なリザルトを求めているわけである。ただ働きかけているという状態よりも、より持続的で巧緻な活動が求められるために、「腕力」であり「手捌き」が必要とされたのだと考える。

最後に「行きつ戻りつを織り込む」について。外部世界の中で目的地を目指すわけである。裸馬も小舟も、一直線に目的地まで突っ切れたとは思えない、幾度も大きく方角を反れ、幾度も乗り手が是正をかけた筈である。慣性にあらがって方角を変えるのは非常な負荷だったろうし、気力も体力も萎えかける瞬間があったのではないだろうか。「腕力」であり「手捌き」が必要とされたのだと考える。

4.「Management」の本質

言うまでもなく、現代のManagementは「腕力」に基づかないし、物理的な「手」にも注目はしない。しかし、その背景に在る3つの要素、「外部世界に働きかける」、「目的地に到達させる」、「行きつ戻りつを織り込む」については、時代を超え、場面をビジネスに変えても通用する本質の部分ではないだろうか。

Managementという概念を、語源から見つめ直していくと、「管理」という言葉に訳すことが正しいとは思えないし、「PDCA」は本当にごくごく一部の要素を指しているだけであり、どちらも本質を伝えていないということが良く分かるのではないだろうか? 

本来の「Management」とは、非常に野心的で、多くの工夫とドラマを孕み、関与する者達をワクワクさせる言葉なのである。

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