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豊田有恒×ヤマザキマリ『不思議の国ニッポン』

「空気を読むことを求められる」「出る杭は打たれる」「ヘンだと思っても口にしない」など、私たち日本人が“常識”と思っていることが、世界では“非常識”なのかもしれない。

世界各地に滞在し、日本をグローバルな視点で見つめる漫画家・文筆家・画家のヤマザキマリと、東アジアの歴史に造詣が深い作家・豊田有恒が、世界のなかでの日本の独自性、国民性について語り合う。

はじめに


見えない将来に対して引かれた一つの動線

日本では、国内に在住する外国人が日本の文化について論じたり、観光に訪れた外国人に動機や目的を尋ねたりする番組が放映されているが、そのように自国を対外的な解釈から再認識するような類の番組を、他の国では見たことがない。

私が今までに唯一、自分たちの土地の印象を問われた場所はイタリア南部のシチリアだが、彼らの問いは『ゴッドファーザー』で一気に知名度が高まったシチリアに、実際現在でもマフィアが関わるニュースが途絶えないことへの懸念によるものだった。

日本の場合は、そうした動機とは別次元のものだ。自分たちにとっては通常化してしまった日常への、客観的な好奇心と捉えるべきなのだろうか。
『テルマエ・ロマエ』のヒットは作者である私にとって大きな謎だった。担当編集者には、こんなニッチな漫画は日本全国で500人も読み手がつけば万々歳だろうと言われ、初版部数もごくわずか、特化したマーケティング展開をしたわけでもないのに、発売から数カ月で次々に増刷がかかっていった。

間もなく当時ポルトガルに暮らしていた私のもとに、二つの大きな漫画賞受賞の知らせが届き、編集者は「わけがわからん、こんなことになってどうするんだ一体」と動揺し、息子からは「どうしてこんな漫画が選ばれるの」と呆れられた。

しかし、その理由をもっとも知りたかったのは他でもない、私自身である。日本はいつからそんなに古代ローマ好きになったのか。いつから入浴文化にそれほどの関心を持つようになったのか。思いがけないその奇妙な顛末にしみじみ考え込んでしまった。

そのうちSNSやレビューサイトで、この作品について「日本のお風呂文化の素晴らしさを再確認」「日本ってすごかったんだ」というような感想があるのを目にするようになった。要するに、『テルマエ・ロマエ』という漫画は、日本の入浴文化を再評価する要素を持った作品だったのである。

私にしてみれば、それまで中東や欧州などローマ遺跡が身近にある環境で生活していたこと、それに加えて、なかなか浴槽のある家に暮らすことができず、募る入浴への枯渇感を解消する目的で描いたような作品だったわけだが、日本を離れたからこそ痛感した入浴という文化への潜在的な敬意が、自覚のないまま表現されていたのだろう。

確かに、比較文学研究者の夫には、「日本の自尊心を満たす内容ともとれる漫画」と評されたこともあった。イタリアはイタリアで、この漫画の翻訳が出版されると「なぜ日本人が自分たちのものであるはずの古代ローマにこれだけ入れ込むのか」などという記事が新聞に書かれたこともあったが、それはそれで、自分たちの歴史を誇りに思う彼らの自尊心の現れだったのだろう。

ただ、彼らにはそうした自国の文化と歴史については確固たる揺るぎない信念があるため、外側の人間による想定外の批評を受け入れる必要はそれほどない。
自分の国のことは自分たちが一番よくわかっているのだから、外国の人間にあれこれ言われたくない、という意識は日本よりも遥かに強固だ。そこが常に「世間体」といった外側の目を意識しながら生きている日本人との大きな違いなのだと思う。

豊田先生も私も、帰属している社会単位を客観的に分析するという、想像力を常に稼働させていなければ務まらない仕事に携わっている。どんな分野でも対応可能な膨大な知識量とフレキシブルかつ振り幅の広い視点を基軸に置いた豊田先生の発言や見解には、人間というくくりを超えた知性の存在感を覚えて圧倒されるばかりである。

豊田先生と親しく、私も尊敬する小松左京氏の書籍を読んでいても感じることだが、そもそもSFというのは既成概念を払拭し、常に自分たちが慣れ親しんでいる環境や習慣に、警戒心と疑念を持ち続けなければ得られない世界観に根づいたジャンルである。人類としての自負や驕りにすがって生きているような人とは、おそらくこのような内容の対談は成立しなかっただろう。

この先、世界がどのような変化を遂げていくのかまったく想像もつかないが、自分たちの帰属する社会を俯瞰で捉える意識が盛んな日本の人にとって、ここにこれから交わされる対話はそんな見えない将来に対して引かれた導線の一つとなるはずだ。

第1章
「信じる」は美徳なのだろうか?


変わり身の早い国民性

豊田 年長者の特権(?)として、私から口火を切らせてもらいますが、84年も生きていると、いろいろな経験をします。価値観、人生の変化にも、何度も出会っています。まず、私は国民学校に入学した最後の世代です。入学するなり、全校生徒が講堂に集められ、天皇(昭和帝)の御真影ごしんえいなるものを拝まされる。教頭先生が紫の幔幕まんまくを開くと天皇の写真が現れるわけですが、実際には深く頭を下げていないといけないので、見られるわけではない。こうした儀式を行われた最後の世代です。

そもそも国民学校とは、ナチスドイツのVolksschuleフォルクスシューレを直訳した呼称です。それ以前は尋常じんじょう小学校と呼ばれていたのが、国を挙げてナチスドイツにかぶれて、初等学校の名前まで変えてしまった。
その結果、とうとう破滅することになります。朝日新聞など、今になって平和志向のようなことを言いますが、もっとも好戦的に日独伊三国同盟を推進したわけですが、現在も頬被ほおかぶりしたままです。

国民学校へ上がると、先生が鬼畜米英のようなことを言います。ところが、終戦になり疎開から戻ると、その同じ先生がアメリカ万歳みたいなことを言う。子供心に軽々しく他人を信用してはいけないという、いい教訓を得たわけです。
変わり身が早いのは日本人の国民性の一部でしょう。明治維新のときだって、外敵を追い払えという攘夷じょうい論だったはずの明治政府が、あっという間に文明開化で鹿鳴館でしょう。これも良くいえば長所で、主義主張や宗教信条にわずらわされずに、意志決定ができるわけです。

ところで、ヤマザキさんはずいぶん早い時期から海外に出ていらっしゃいましたね。

ヤマザキ 絵画を学ぶため、私が初めてイタリアに渡ったのは17歳のときでした。といっても、自分の意志で行ったわけではなく、14歳で初めて欧州に一人旅をした際に偶然出会ったマルコさんというイタリア人の陶芸家と母が手紙のやりとりをしながら取り決めたことでして、その当時の私にはイタリアに対する関心などほとんどありませんでした。自分の人生すべてにいえることですが、このイタリア行きも成り行きにあらがわず、成り行きに身を委ねた結果です。イタリアについて知っていたことといったら、人形劇のキャラクター「トッポ・ジージョ」くらいですかね(笑)

豊田 私が最初にイタリアを意識したのは、戦後、ある1本の映画を観たときです。
前提をお話しすると、1945年3月10日に東京大空襲が起こった際、私は小学校入学を控えていました。群馬県の前橋市ですが、父親が病院を開業していて、その屋上から100キロ南を見たら真っ赤なのですよ。

ヤマザキ 100キロも先が見えるのですか。

豊田 ええ。100キロ離れているにもかかわらず、南の空が真っ赤になっているのです。それが記憶に焼きついています。
その後、小学校に入学はしたのですが、すぐに疎開しました。父の病院も爆撃され、記憶では病院の診察台の鉄の部分だけ焼け残っていました。周囲は瓦礫の山で、小学校3、4年生まで、うちは片付かなかったです。

その頃に観た映画がイタリア映画の『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、日本での公開は1950年)でした。
生活が苦しいなか手に入れたにもかかわらず、盗まれてしまった1台の自転車を取り戻すべく奔走する親子の姿を描いた作品ですが、背景に瓦礫の山が映し出されていましたよね。それを観て「あ、うちと同じだ。こういう国もあるんだ」と。イタリアも日本も同じだったのです。


予定調和は存在しない

ヤマザキ イタリアは、たとえばシチリア島に行くと、パレルモ市内などは第二次世界大戦で爆撃されたそのままの状態が、経済的な理由からだと思うのですけれど、何十年間も放置されたままになっていたりします。バラックやそれ以前の古い建造物が渾然一体となった街中に、第二次世界大戦の爪痕もしっかり残っている。なので人々は人間が過去に残してきたあらゆる痕跡を目の当たりにしながら生きている。日本ではなかなか得られない感覚だといえます。

イタリアではフィレンツェのアカデミアという美術学校に通っていましたが、お金がなく食べるのにも困るような生活をしていました。
11年間の滞在で26回も引越しするなど、今思えばあり得ないような経験をしましたが、もし私があのときにイタリアに対して固定したイメージを持っていたり、理想を抱いていたりしたら、おそらくものすごく幻滅し、失望していたと思います。

イタリアに暮らしているというと「イタリアって、マンジャーレ、カンターレ、アモーレ(食べて、歌って、愛して)の国なんでしょ」と周囲からは言われるわけですが、少なくとも私は自分の暮らしの周辺で、そんな様子のイタリア人など見たことがありません。私の周りにいたのはみんな、むしろそういうイタリアのイメージを嫌う人たちばかりでした。

日本ってサムライ、ゲイシャなんでしょ、と言われて違和感を感じるのと同じです。人はいかに自分たちに都合のいいようなものしか見ていないのか、見たいものしか見ようとしていないのかがよくわかります。
一歩踏み込んだ政治の話になると、その傾向は顕著になり、自分たちに都合のいいことしか受け止めたくなくなるのでしょう。

豊田 それは、さまざまな局面でいえることですね。ヤマザキさんと私は20歳以上も年齢が離れていますが、我々の世代は、幼稚園の先生からも軍国教育を受けていました。
疎開すれば、疎開先で「言葉が違うから」という理由でいじめられ、疎開先に順応しても、元の場所に戻ればまた「言葉が違う」「習慣が違う」といじめられる。子供時代に二重のいじめを経験しているのが、私たちの世代なんです。価値観が崩壊するという経験を、これまで何度もしてきました。「現代の作家には“原体験”がない」と、戦争体験のある作家さんたちがおっしゃる理由はそんなところにあるのだと思います。

ヤマザキ その通りですね。昨年、私はNHKの『100分de名著』という番組で、安部公房の『砂の女』の読み解きを担当していましたが、安部公房は1924年生まれです。25年生まれの三島由紀夫や30年生まれの開高健にもいえることですが、若いときに戦争という現実と対峙してきた作家たちには、やはりある種の傾向があると思います。一般の人にしても、私の母は昭和一桁ですが、やはりその後に生まれた人とは生きる強靭さというか、動じなさというのが傑出しているように思えます。

戦争というのは、予定調和というものはこの世に存在しないということを思い知らされる、最たる現象だといえますよね。自分が描きたい理想は脆く崩壊する、ということが顕在化する。その感覚は、私たちとは次元が異なるものなので、その方たちが紡ぐ文章は、他の世代とは明らかに系統が違うものになるのだと思います。

『砂の女』を自分なりに解説することができたのは、私自身がイタリアで不条理な思いを体験してきたからです。フィレンツェで暮らしていた頃にイタリア語で読んだ『砂の女』は、そのときの自分の心境とぴったりとマッチしました。

ところが、その方向性で読み解くと、若い世代からは「違う気がする」という声も聞こえてきたりする。当然文学は自分が捉えたいように捉えるものですから「こう読みなさい」と強いる筋合いはないですが、やはりそれぞれが自分の経験値に即した範囲のなかで留めておきたい、という考えからなかなか抜け出せない。

すると、安部公房の作品がどんなに強いメッセージ性を持っていても、それが伝わることはありません。共有できる価値観と経験値が伴わなければ仕方がないことですが、今を生きるうえでもたくさんの栄養となるはずの文学なのに、もったいないという気持ちがないわけではありません。

「その情報、フェイクか本物か」へ続く


お読みいただきありがとうございました。
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\ 2023年2月17日発売 /
豊田有恒×ヤマザキマリ
『不思議の国ニッポン』

豊田有恒(とよた ありつね)
1938年、群馬県生まれ。島根県立大学名誉教授。若くしてSF小説界にデビュー。歴史小説や社会評論など幅広い分野で執筆活動を続ける一方、古代日本史を東アジアの流れのなかに位置づける言説を展開して活躍。著作には数多くの小説作品の他、ノンフィクション作品として『たのしく老後もはたらく生き方』『一線を越えた韓国の「反日」』(いずれもビジネス社)、『ヤマトタケルの謎-英雄神話に隠された真実』『「宇宙戦艦ヤマト」の真実 いかに誕生し、進化したか』(いずれも祥伝社新書)などがある。

ヤマザキマリ
1967年東京生まれ。漫画家・文筆家・画家。東京造形大学客員教授。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。15年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。17年イタリア共和国星勲章受章。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』(集英社)、『国境のない生き方』(小学館新書)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)など多数。近著に『リ・アルティジャーニ ルネサンス画家職人伝』(新潮社)、『地球、この複雑なる惑星に暮らすこと』(文藝春秋、養老孟司と共著)、『歩きながら考える』(中央公論新社)などがある。

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