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近代能楽集

三島由紀夫の『近代能楽集』という本を読んだ。ネットで「三島由紀夫は戯曲が一番面白い」という意見を見かけたからである。

読み終えて思ったのは、自分は小説の方が好みだということ。台詞回しもたまに出てくるから「うますぎる!!」「座布団五百枚!!」と興奮するわけで、それが延々と続くと作為的なものを感じてしまう。小説そのものが作為的であるけれど。

そして、元ネタが分からないので面白さが半減するということ(笑)まあ元ネタが分からなくとも面白くはあった。

個人的に好きなのは最初と最後の『邯鄲』と『弱法師』である。『邯鄲』はとても作者らしいというか、三島由紀夫の好み趣味みたいなものが滲み出ている気がする。わたしは「菊や、それがほんとうだよ。つまり菊やは生きるんだよ。」という次郎の台詞になんとなくジン…ときてしまった。ネットで一般の方の解説文を見てみると、なるほどそういう深い意味があるのか、と思わされるが、わたしはそこまで深く味わなくともよいかなと思った。

最後の『弱法師』であるが、わたしは作者の小説に出てくるこの手の冷たいキャラクターが苦手だと改めて思った。(『天人五衰』の主人公透のような)ただ最後の「僕ってね、……どうしてだか、誰からも愛されるんだよ。」という台詞はとても印象的だった。万人に愛されるが故の絶対的な孤独を感じる。だれにも本当の心を見てもらえないし、だれにも本当の心を打ち明けられないということ。微笑して去る恋人(未満?)の級子と、明るい部屋にひとりぽつねんと残っている主人公。

愛されるほど孤独を感じるのは一種の呪いなのだろうか、と考えるほどに、わたしも「愛される」ことが苦手である。まあ愛にもいくつか種類があるのだろうが。それか、愛というものが本当の意味でひとつしかないのなら、わたしが苦痛を覚える他者からの愛というのは、「まことの愛」ではないのかもしれない。

長くなってしまうが、作中で愛に関することといえば、『綾の鼓』の中で華子が自分に恋心を寄せる老人に向かって「女が証拠をもっているおかげで、男の人は手ぶらで恋をすることができるのよ。」という台詞には心から同意した。もちろん、男が証拠を持っていて、女が手ぶらで恋をしている場合もあるだろう。わたしの場合は、「出したら最後、恋でなくなるような証拠」を持っているのは自分だった気がする。だから手ぶらで恋ができる相手が羨ましいのかな、とも。


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