論文における翻訳問題—Culturally Sensitivenessを働かせる—

 多文化文学の指導の日本への紹介と導入について書かれた、日本語ではある種貴重な論文を読んでいる最中、翻訳について引っかかったことがありました。当該論文で参照されていた引用文献の中に、アフリカ系の生徒・(教員志望の)学生にどのような影響を与えるかを論じたものがあり、原文は以下のようになっておりました。

 —When I did hear about my culture it always went back to the slave years or Dr. Martin Luther King Jr. Whatever happened to learning about the inventor of the stoplight, which is in use today? The point I am trying to make is that African Americans were more than just slaves. They were inventors and educators as well (Colby & Lyon 2004: 25).

 要約すると、自分は今までアフリカ系アメリカ文学やそれにまつわるテクストについて読み聞かせしてもらったり、学校で扱ってもらったりした記憶はない、せいぜい著名なアフリカ系アメリカ人について表面的に勉強しただけだった、彼らはもっと多くのことを成し遂げたのにそれを十分に(自分もメインストリームの子たちも)学べていない…大意としてはおよそこうなるかと思います。

 私が強く違和感を憶えた箇所は”—-African Americas were more than just slaves.”の部分です。歴史的文脈やaffirmative actionといった社会的モーブメントも加味するならば、「アフリカ系アメリカ人は『奴隷』という概念を超える存在であったのだ」などにすべきと思われます。これに対し、前述の日本語論文では「アフリカ系アメリカ人は奴隷以上の存在だった」とありました。これは翻訳として、そして他国で蓄積された知を紹介する媒体の有する責任として、一考を要するものなのではと感じました。

 多文化文学(multicultural literature)ないし子どもたちの言語・文化に根差したテクスト(culturally relevant texts)を用いた読みの指導は、ただでさえ日本での研究者が少ない分野です。こうした知的領域において、一語・一節ごとの日本語訳が与える影響は、看過できないものがあります。逐語訳だけでなく、その語に託された歴史的コンテクストの「重み」にも十分に配慮し、その上でアカデミズムにどのように還元するかといったことを鑑みることが、研究者として果たすべき倫理と考えます。日本の文系の学術論文を海外に向け発信するならば、大学院でのCulturally Sensitiveness/文化的感受性の教育も、また必要になってくると、この一件で感じた次第です。

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