【映画】「親愛なる同志たちへ」感想・レビュー・解説

普段の僕ならこの映画について、「過去の知られざる虐殺の実話は、遠い過去の出来事ではなく、現代とも地続きだ」というような感想を書いていたと思う。1962年に起こり、ソ連解体まで30年間も秘されていたというこの虐殺事件は、確かに、ロシアによるウクライナ侵攻やミャンマーでの民衆弾圧を想起させるし、SNSがあるか無いかの違いだけで、今もいつだってこのようなことは起こりうると思う。

ただ映画を観ながら僕がずっと考えていたのは、「この映画で描かれる共産主義体制のソ連の『愚かさ』は、人間が作るどんな組織でも起こりうるし、というか起こっている」という風に感じていた。

主人公のリュドミラ・ショーミナ(リューダ)は市政委員会の生産部門の課長であり、共産党に忠誠を誓う人物だ。そして、彼女を中心に描かれるこの映画で示されるのは、「中央委員会に連なる上意下達の組織の中で、上からの命令を無批判に受け入れ、その堆積によって残虐な行為に行き着いてしまう『愚かさ』」だ。

そしてそれは、この映画で示されるほど酷くないとしても、ありとあらゆる「組織」で現実に存在するし、多くの人がその『愚かさ』に日々直面していると思う。

僕が何らかの「組織」の一員として存在する際よく感じることがある。それは、「あなたはそれを本心から言っているんですか? それとも、立場上それを言わざるを得ないからそう口にしているんですか?」ということだ。

まともな思考力を持っていれば、上からの指示に対して「それはおかしいんじゃないですか?」と止めなければおかしいと感じるような、適切とは思えない指示が下りてくることがある。もちろん、末端にいる者であればあるほど、上の指示に逆らうことは難しくなるし、立場上その指示を下ろさなければならないということも理解している。

「自分でもおかしいと思っているけど、立場上仕方ない」という雰囲気を感じられるなら、まだ人間として関われる。しかし中には、明らかにおかしなその指示を、一切の疑いを感じさせず、「上が言うからには絶対なのだ」という雰囲気で口にする者もいる。あたかも、その指示に本心から共感しているような振る舞いだ。僕はそういう人に関わらざるを得ない時、耐えられないほどの不快感を覚えるし、組織に属する人間としては適切ではない形で反論・反抗したりしてしまう。反論・反抗してしまう自分自身に対して「愚かさ」を感じることも多いが、どうにもならない。

映画の中で、好きな場面がある。プリエフという大佐が大勢の軍人が集まる場でとある命令をされるシーンだ。

映画では、工場労働者がデモを起こし、その鎮圧のために軍が派遣される、という展開になる。しかし、現場にやってきた軍司令官は、「大佐から銃器の持ち出しは禁じられている」と誰かに報告をしていた。その報告を受けたその人物は、「銃を携行するよう命じる」と言う。銃器の持ち出しを禁じたのがプリエフ大佐であり、この点について委員会で問われるのだ。

プリエフ大佐は、

【軍隊の役目は、国を外的から守ることです。市民への発砲は憲法違反です】

と堂々と主張する。しかし、その主張は認められない。プリエフ大佐は改めてその場で、「兵士に銃の携行を指示しろ」と命じられ、自説を撤回することになる。そんなシーンだ。

最終的にプリエフ大佐が銃の携行を命じたことは、仕方ないと思う。ソ連という国家の中で軍人が生きていくためには、さすがにあれ以上に反抗は無理だろう。

というか僕は、あの場面で「憲法違反だ」と口に出来る雰囲気が存在したという事実にちょっと驚かされた。勝手に、「ソ連とはもっと抑圧的な国家体制をしている」と思っていたからだ。もちろんこの映画はフィクションなのだから実際どうだったか分からないし、プリエフ大佐の行動は彼の「勇敢さ」として称賛されるべきなのかもしれないとも思う。ただ、同じ場でリューダも、求められていないのに勝手に発言するなど、「意見を聞く」というスタンスは一応あったのだろうなと感じた。

映画では描かれていないが、恐らくプリエフ大佐はその後兵士たちに、さも本心であるかのように「銃携行」を命じただろう。軍隊では、上官が指揮の迷いを見せるわけにはいかないだろうからだ。しかしそうだとしても、プリエフ大佐は一度「銃器の持ち出しは禁ずる」という命令を出している。「銃携行」を命じられた兵士たちも、プリエフ大佐が仕方なく自分の意見を変えたのだと理解するだろう。そして、プリエフ大佐の振る舞いがもし僕の想像通りだったとしたら、僕はプリエフ大佐と人間的には関われる。

一方、そういう観点からすると、リューダはなかなか難しい。彼女は冒頭からずっと、無批判に共産党を支持する人物として描かれるからだ。そしてそんなリューダが主人公だからこそ、彼女の揺れ動く感情に惹きつけられることになる。

リューダは市政委員会の課長だが、その娘であるスヴェッカは工場で働く労働者だ。まさにデモが起こった工場で働いており、そのことで母親と口論になる。共産党の動きをなんとなく知っているリューダは、デモに加わる娘をたしなめるが、娘は「民主主義なんだから抗議する権利はある」と、翌日もデモに参加する意見を変えない。ここでスヴェッカが「民主主義」だと言った理由はよく分からないが(ソ連は明らかに社会主義国家だから)、リューダとスヴェッカは母娘でありながら主義主張がまったく異なっている。

印象的だったのは、リューダが何度も「スターリン時代」を恋しがる発言をしていたことだ。

【スターリンが恋しい。彼がいなければ革命は無理よ】

とまで口にする彼女は、今(1962年当時)との違いをこんな風に表現している。

【かつての指導者(※スターリン)を今はなぶり者にしている。
あの頃は、誰が味方で誰が敵かはっきりしていた。今じゃ、娘のことだって分からない。
スターリンを失ったからかな】

スターリンは一般的には「独裁者」と知られているだろうし、西側諸国の人間には良いイメージなどないだろう。現代のロシア人がスターリンをどう評価しているのか知らないが、やはり良いとは思っていないように思う。ただリューダは、当時の指導者であるフルシチョフではなく、かつての独裁者を思っているのだ。

スターリンのことを親愛しているからリューダはダメだと思っているのではなく、全体としてリューダは「共産党のやっていることは正しい」と無批判に受け入れており、そのことがやはり許容できない。当時の人としては仕方ない部分は当然あるだろうが、娘のスヴェッカが体制への批判を口にするような人物なのであり、必ずしも「共産党を支持しなければ非国民扱いされる」という雰囲気ではなかったはずだ。工場労働者にしても、軍が道を封鎖していようが、市政委員会の建物を軍が警備していようが、「軍人が市民を撃てるはずがない」と認識しており、兵士に対しても「撃てるもんなら撃ってみろ」と強気に出る。今の中国のように、「政権批判をしたら即逮捕」みたいな時代では恐らくなかったはずだ。

スターリン時代から共産党を支持していたのだとはいえ、フルシチョフになって時代が変わってからも同じように共産党を無批判に支持しているリューダには、ちょっと賛同しにくい。

しかしどの組織にも、リューダのような人間はいる。出世のためなのかなんなのかよく分からないが、上の人間におべっかを使い、上からの指示を無批判に下に流し、「組織全体を本当の意味で良くするための意見や陳情」ではなく、「上の人間に逆らわないこと」を最善とするような人間が。

この『親愛なる同志たちへ』という映画は、かつて存在していたソ連という国家で実際に起こった出来事をベースにした作品だが、この映画で描かれているのは、「人間の組織はあっさりとソ連のような集団に陥ってしまう」ということだと僕は感じた。

この映画を観て、ソ連の組織の愚かさを笑っている人は、気をつけた方がいいかもしれない。そういう人は、自分が同じようなことを今所属している組織の中で行っていても気づいていないかもしれないからだ。「そんなはずない」と感じる人は、自分の周りにプリエフ大佐のような批判的意見をくれる人がいるのか思い巡らせてみよう。

もしいなければ、あなたは、悲惨な虐殺事件を生み出してしまったソ連という愚かな国家体制と同じような組織の在り方に加担してしまっているかもしれない。

内容に入ろうと思います。
ソ連南西部に位置するノボチェルカッスクに住むリューダは共産党に忠誠を誓い、「共産主義以外のなにを信じればいいの?」と口にするほどソ連の体制を信じている。一方、市政委員会のメンバーとしての権力をフルに活用し、スーパーで品物が奪い合いになるような物資不足・物価高騰が続く市内でも必需品・贅沢品を手に入れ、シングルマザーとして父親と娘3人で生活している。

1962年6月1日、いつものように市政委員会に出勤したリューダは、他のメンバーとの会議中謎の音を耳にする。それは、近くの電気機関車工場でストライキが始まったことを示すもので、彼らは対策に追われることになる。中央委員会の書紀がやってきて、「社会主義体制でなぜストが起こるんだ!」と喚き散らすが、工場の労働者は給料が1/3に減ると通告され、それに抗議しているのだ。

モスクワはこの一件を重大視し、軍の派遣を決定する。他の工場とも連携し、5000人規模のデモが計画されていると知り、ノボチェルカッスクに至る道を軍が封鎖することに決まったが、翌6月2日、軍の封鎖をあっさり突破し、大量の市民が市政委員会の建物を取り囲んだ。リューダたちは避難するが、その後銃声が響き、建物周辺に銃撃された市民の死体が多数横たわる惨劇が展開される。

リューダは、娘の姿を探す。病院には入れず、死体安置所に死体はない。娘の行方は分からない。

リューダは、この虐殺を直接目にしたことで、これまで自分が信じてきた共産党への忠誠が揺らぐことになるが……。

というような話です。

正直、映画を観終えて家に返って公式HPを開くまで、この映画のことを「以前公開されていた映画が、ウクライナ侵攻に合わせて再上映されることになって昔の作品」なのだと思っていた。全然違った。新作映画として公開されたものだった。

白黒の映画だったからそう感じた、というわけではない。映画全体から「古さ」を感じたのだ。特に僕は、カット割りが印象的だった。映画というメディアが開発された初期のような、映像表現としてこなれていないような感じのカット割りに感じたのだ。また公式HPには、「ソビエト映画のイメージにできるだけ近づけるために、当時の映画では主流であったモノクロかつ1.33 : 1のアスペクト比で撮影した。」と書かれている。やはり制作側が意識して「昔の映画感」を出そうとしていたということだろう。

この映画の「古さ」は、決して悪いものではない。共産党時代のソ連というのは、とても古臭く冗談みたいな世界だと僕は思っていて、それをカラーの綺麗な映像で映し出すと、嘘くささが増すと思う。どうしても「喜劇的」になってしまう気がするのだ。それを、もの凄く「古さ」を感じさせる映像で構築することで、「喜劇感」が薄まり、臨場感や悲劇的な部分がより強調されたように思う。

言い方が変だし誤解されるかもしれないが、今プーチン大統領が行っているウクライナ侵攻も、スマホやテレビでカラー映像として観ているから「こんなことが起こるなんて冗談みたい」と感じるようなありえなさが映し出されるのではないかと思う。もしウクライナ侵攻に関するニュースを、この映画と同じような「古さ」を感じさせる映像で報じたら、「あり得なさ」みたいなものが薄まる気もする。つまり、「遠い過去に起こった出来事だとするならまああり得る」みたいな捉え方になるように思うのだ。そんな行為を今の時代に行っているからこそ、プーチン大統領の「異様さ」がより際立つという言い方もできるだろう。

この映画では、共産党を無批判に信じているリューダが、「娘が虐殺の犠牲者になったかもしれない」という事実に直面することで、自分が信じてきた世界が侵食されていくその過程が描かれていく。リューダの年齢に関する描写はなかったが、娘の年齢から考えても40代以上であることは間違いないし、50代になっている可能性もある。正直なところ、それぐらいの年齢から「それまで信じてきたもの」を自分の力だけで変えていくのは無理があるだろう。また、僕にはよく分からない感覚だが、ソ連に限らず一昔前の世界では、「国家というイデオロギー」が「個人の存在」を規定するような感覚があっただろうし、「国の発展」こそが「私という個人の幸せ」でもあるという風潮は、日本だったあったと思う。現代の視点からすればリューダという存在はなかなか受け入れがたいが、恐らく、彼女が生きた時代の雰囲気を知っている人には共感できる部分があるのだろうと思う。

スターリンを恋しく思うほど共産主義を、そしてソ連の共産党を強固に信じてきたリューダだったが、ノボチェルカッスクでの虐殺に娘が巻き込まれたかもしれないと分かった時点からその想いが揺らいでいく。それは、党からの高い評価が得られるかもしれないという委員会を抜け出し、トイレで号泣する場面からも伝わってくる。

ただ、娘の死を予感するような状況になってもまだ、信じてきたものを捨てきることができないでいる。彼女の「共産主義以外のなにを信じればいいの?」という言葉は、娘の死体を探そうと奔走している最中に発せられたものだ。

リューダにとってはまさに、「共産主義」や「共産党」が、「リューダという個人」を規定するような根源的な存在だったということだろう。

僕たちは既に、そのような大きなイデオロギー的なものによって個人を規定することが難しい時代を生きている。だから、リューダが経験した「アイデンティティの崩壊」をリアルに想像することは難しい。ただ、規模感は大分違うかもしれないが、例えば「自分が推しているアイドル・芸能人が解散・引退する」みたいな状況は、「推し活」こそが人生だと感じている人にとっては「アイデンティティの崩壊」に近い状況だろうと思う。リューダが置かれた状況と比較することは難しいが、似たような経験をする機会はゼロではないだろう。

あるいは、僕たちはなんとなく「安全な社会」を無意識の内に前提にしている。日本は、自然災害こそ多いが、領土をどことも接していないという地政学的な利点もあり、「なんとなく安全」みたいなイメージを持って生きてきたと思う。しかし今回のウクライナ侵攻によって、ロシアや北朝鮮が本当に日本を攻撃するかもしれない、その場合にアメリカが日本を守ってくれないかもしれない、という可能性を考えた人もいるはずだ。遠い国で起こっている戦争ではあるが、ウクライナ侵攻は僕たちから「なんとなく安全だという感じ」を奪ったと言っていいだろうし、それはある意味でリューダが経験したことにも繋がるのではないかと感じる。

ソ連は、このノボチェルカッスクでの虐殺を隠蔽するためにありとあらゆる手を使う。映画では、看護師が集められ、何かの書類にサインさせられるシーンが映し出される。これはつまり、ノボチェルカッスクの虐殺事件での怪我人の治療にあたって、守秘義務契約に署名した者以外は近づかせないということなのだ。今まさに治療を必要としている怪我人を放置して、まず守秘義務契約にサインさせる異常さに驚かされた。

ロシアがウクライナに侵攻しているまさに今公開されたこの映画は、1962年の出来事が現代に地続きであることを如実に示唆する作品だが、僕としてはやはり、「人間が作った組織はあっさりと『愚か』になってしまう」という点にリアリティを感じた。そういう意味でも他人事ではない作品だと思う。


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