【映画】「皮膚を売った男」感想・レビュー・解説

これは面白い。

「面白い」という表現は、ある意味で不謹慎なのだが、敢えて言おう。

メチャクチャ面白い。

この映画(この映画で描く「芸術作品」)は、「アートがこれほどまでに鮮烈に、皮肉に、センセーショナルに『社会問題』を風刺できること」を示しているという点で、メチャクチャ面白く、かつ、メチャクチャ不謹慎なのだ。

物語の設定はシンプルだ。シリア難民として逃れてきた男性の背中を、ある芸術家が買う。その芸術家は背中に「アート作品」であるタトゥーを彫り、それを展示する。

これだけ聞くと、「不謹慎さ」の方が勝るかもしれない。「シリア難民を食い物にしている」という批判が出るだろう。実際、この映画の中にも、「このアートは、難民を搾取している」と抗議する団体が現れる。

しかし、ここで大事なことは、その芸術家が背中に「何を彫ったのか」である。

それは「シェンゲン・ビザ」と呼ばれているものだ。このビザ1つで、ヨーロッパの協定内の国なら、短期間ではあるがどこへでも自由な移動が可能となるものである。

芸術家が発しようとするメッセージに気づくだろうか? 「難民であるが故にどこにも行けない人物が、アート作品になることでどんな国にも渡航できる」という皮肉が込められているというわけだ。

実際に芸術家は、この「アート」の真意をこんな風に説明する。

【シリア人、パレスチナ人などは、外交上好ましくない存在として扱われる。
一方で、我々が生きる世界では、人間の行き来よりも商品の行き来の方が遥かに自由だ。】

そして実際に、このシリア難民は、「シリア難民」としてはビザを発給されなかったが、「アート作品」としてはビザを受け取ることができた。芸術家がまさにこのアート作品に込めたメッセージ通りに。

そして、その象徴として、彼の背中には「シェンゲン・ビザ」が刻まれている、というわけだ。

これは見事だ、と感じた。別にすべてのアートが社会問題を提起しなければいけないなどと考えているわけではないが、アートにはその一側面としてそのような性質もある。そして「皮膚を売った男」というアート作品(そして映画)は、まさにその性質をこれ以上ないというレベルで実践してみせたと言っていいだろう。

まずこの設定が素晴らしいと感じた。

しかもこの映画にはなんと、モデルがいる。人間の背中にタトゥーを彫り、アート作品として展示した芸術家が実在するのだ。映画を観て初めて知ったが、その芸術家本人が映画の中にちょい役で出演している。

さて、今僕は「この映画にはなんと、モデルがいる」と書いたが、この文章は実は正確ではない。というのも、僕はこの映画を観る前に勝手なイメージとして、「実話を元にした作品なのだろう」と思っていたからだ。

実際に、映画の最後の最後までそうだと思い込んでいた。そうではないと分かったのは、映画のラストの展開にあるのだが、誤解しないでほしい。ラストの展開が拙かったから実話ではないと分かったのではなく、むしろ逆、映画のラストがあまりにも衝撃的だったから実話ではないと分かったのだ。

本当に、作品の設定から展開まで、すべて含めて異常に良く出来ている。この感想の中では、映画ラストどんな展開を迎えるのか書かないが、このようなラストにすることで、この映画全体がまた別の「皮肉」を内包することになった、という意味でも重要だと思う。

1つだけ単語を出せば、作中で出てくる「システム」という言葉に集約されるだろう。アートの世界に詳しいわけではないので、その皮肉が誰にどのような形で突き刺さるのかパッとイメージできるわけではないが、この映画のラストは、正体不明のバンクシーがアートの世界を挑発し続けているのと同じような形で、アートの世界、ひいては我々が生きている世界のすべてに関わる「システム」に疑問を突きつけていると感じた。

閑話休題。

この映画は、「シリア難民の背中にアート作品を彫り込むことで『商品』に変え、移動可能な存在に仕立て上げる」という設定であり、僕らの日常生活とかけ離れているように感じられるだろう。

しかしこの映画では、「『人間が、人間でもあり商品でもある』とはどういうことか」という問いも突きつける。そしてこれは、決して我々の日常と無関係ではない。

例えば、アイドルに代表されるような、「人前に出て、その人気を獲得することで存在価値
を見出す」ような人たちは、まさに「人間でもあり商品でもある」と言える。広く捉えれば、芸能人・スポーツ選手・Youtuberなど様々な人たちが「人間でもあり商品でもある」という生活を送っていることだろう。

また、そういう「人間でもあり商品でもある」人たちというのは、私たち一般人の支持によって成り立っている。それはつまり、私たち一般人は常に、「人間でもあり商品でもある」人たちと関わっている、ということでもある。

もっと言えば、我々一般人の興味・関心がなければ、「人間でもあり商品でもある」存在が成立しえない、ということでもある。

まさにこの構図は、この映画で示されるものと相似形を成すと言っていいだろう。

「背中にシェンゲン・ビザを彫る」というのは、それを行う芸術家の行為も、それを鑑賞する人々の姿も、なんとなく醜悪なものに映るだろうと思う。この映画を、自分とは関係ないものだと感じる人ほど、「そんなことするなんて信じられない」という感想を抱くように思う。

しかし、実際に「背中にシェンゲン・ビザ」を彫らないとしても、私たちは生きている中で、「人間でもあり商品でもある」生き方を選んだ人をたくさん知っているし、自分たちもそんな「人間でもあり商品でもある」人たちと当たり前のように何らかの関わりを持っている。

つまり、もし観客としてこの映画に不快感を抱くとすれば、それは同時に、私たちが普段当たり前のように行っている行為を嫌悪することと同じなのだ。

牛肉や豚肉を食べる人も、動物を解体して食肉に加工する仕事は嫌悪する。そんな理不尽さえ、この映画には含有されているように僕には感じられる。

さらにもう1つ強く感じさせられたのが、「自由と不自由」についてである。この映画は明らかに、この「自由と不自由」を対比させるようにして様々な場面を描いている。

まず冒頭では、難民として母国シリアを脱出せざるを得なかった主人公の「不自由」が描かれる。難民という立場も当然「不自由」であり、彼はその状況を脱したいと強く願う。その背景には、結婚が叶わなかった恋人との強制的な別れもあるのだが、それはまた後で触れよう。

その後彼は芸術家と出会い、「自由」を得るために自分の背中を売る。彼は「アート作品」になることで、世界中で展示される際に「自由」に国を移動できるようになる。そのために背中が「不自由」になってしまったが、大したことではないと主人公は考える。

しかし彼は、「アート作品」となった自分の人生がどんな風に推移するのか想像できていなかった。彼は確かに、シリア難民としては手に入れることができなかった、どこにでも移動できる「自由」を手に入れた。しかしその自由は、「展示物としてじっとしていること」を要求されるし、望んでもいない形で自分が注目されてしまうことで生じる「不自由」もある。家族に認めてもらえなかったこともまた「不自由」と言えるかもしれない。

それから彼はある行為をすることで、世間的に見れば「不自由」としか思えない環境へと移ることになる。しかしそこで彼は「ここで満足だ」と言い切るのだ。

まさに彼は、「自由こそ不自由であり、不自由こそ自由である」ということを身を以て体感することとなった。

さらに映画のラストは、思いがけないものとなる。それが「自由」なのか「不自由」なのか、それすらここでは触れないでおくことにするが、まさに作品全体で「自由/不自由」を見事に描いていると感じた。

「自由」について考える時、いつも頭に浮かぶ文章がある。中島らもの妻・中島美代子が、中島らもについて語っているものだ。

【らもにとっては、表面的には誰の言いなりになろうが、どうでもよかったというのが本音だと思う。どこに住もうが、何を着せられようが、頭の中が自由ならそれでいいと思っていたはずだ。】(中島美代子/集英社)

何を「自由」と考えるのかも、人それぞれだ。この映画もまた、「『自由』を望む時、一体何を望んでいるのか?」を問う物語だと言っていいだろう。

内容に入ろうと思います。
シリアで電車に乗るサムは、一緒に乗っている恋人のアビールと結婚したいと考えているが、裕福な家柄のアビールとの結婚はなかなかハードルが高い。アビール自身もサムと結婚したいと考えているが、親を喜ばせるために見合い相手と会わなければならない。そんな状況を吹き飛ばしたいと、サムは電車内で乗客たちに「彼女と結婚する!」と言ってはしゃぐのだが、その時の発言が切り取られ「不当逮捕」されてしまう。何とか逃げ出せたが、シリアに留まることはできず、姉の助けを借りてレバノンへと逃れた。
サムは仕事を見つけ、食い物にありつくために金持ちのパーティーに勝手に潜り込む日々を過ごすが、そこで芸術家のジェフリーと出会う。彼は、サムがシリア難民だと知ると呼び止めて酒に誘い、「背中がほしい」と切り出す。
サムは、国際電話でアビールと電話をするが、アビールは不本意ながら見合い相手の外交官と結婚したようで、アビールとのやり取りもなかなか上手くいかない。そんな状況もあってサムは、「背中を売る」という決断をする。
ジェフリーは彼の背中に「シェンゲン・ビザ」を彫り、新作として美術館に展示する。世界中で話題となり、多数の”観客”に見られる日々を送るサムだが……。
というような話です。

作品の設定や奥深さなどについては冒頭であれこれ書いたので、ここからはサムとアビールの関係について書いていこう。

この映画はこういう、「社会問題を突きつける」以外の部分もとても上手い。

自由/不自由の話で言えば、アビール自身はこの映画の中で「不自由」を象徴するような存在としてずっと描かれていく。これは、シリアを含めた中東の問題でもあるだろう。女性の権利がまだまだ弱かったり、女性の権利を抑圧するイスラム教の教えが強かったり色々あるだろうが、いずれにしてもアビールは、自分が愛するサムと結婚できず、「生きるため」に結婚せざるを得ず、その結婚生活も幸せとはいえないという状態にある。

サムには、「身分の違い」という困難はあっても、アビールと一緒になることはできるはず、という思いでいたのに、サム自身の不注意もあったが、思いがけない形でその夢が潰えてしまうことになる。

そしてその後も2人は、様々な場面ですれ違ってしまう。この辺りは非常に「フィクション的」だが、「展示物」でありながら「感情を持つ人間」であるサムという存在を浮き立たせるのに非常に重要な存在である。

そしてこのアビールとの関係も、思いがけない形でラストを迎えることになる。それについてもこの感想では触れないが、よく出来てるよなぁ、と感心させられる展開だった。

あと、なるほどと感じたのは、「『サム』というアート作品を売る際の問題点」だ。様々な国では法律上「人身売買」と判断され、その問題をクリアできないという。確かにその通りだろう。いくら「これはアートです」と言ったところで、実際は人間なのだ。もしそんな理屈が通るなら、人身売買の組織が適当な絵を書いた人間を「アートです」と言って売買出来てしまうことになる。

このように、「背中にアート作品が刻まれた男」というのは、世の中の様々な”境界”を挑発するような存在だと言える。倫理的に問題があるからこそ「問題提起」としての価値を持つとも言えるし、「本人が許可すれば人間をアート作品に変えていい」という理屈は、「本人がOKなら安楽死を許容してもいい」という理屈にも転用できるだろう。

様々な問題を想起させる、非常に優れたアート作品であり、映画であると思う。

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