【映画】「ありふれた教室」感想・レビュー・解説

観ていて最も強く感じたことは、「日本じゃこうはならないような気がする」ということだ。

物語の割と早い段階で、こんなシーンが描かれる。これは書いてもネタバレとは思われないような気がするが、どうだろう。物語の大きなきっかけとなる展開なので、この展に触れないとちょっと話が進まないので書くが、知りたくないという方はこれ以上読まない方が良いかと思う。

さて、本作では冒頭から、「学校内で窃盗が多発している」という話が出てくる。誰の仕業なのかまったく分からないが、教師は生徒の犯行だろうと考え、”任意”を強調しつつ生徒の財布をチェックしたりする。そんな窃盗は、実は職員室でも起こっており、被害に遭っている教師もそれなりにいる。

さてそんな中で、去年赴任したばかりの新人教師であるノヴァクはある行動を取る。わざと財布の中のお札を職員室で数え、それを椅子に掛けた上着のポケットにしまった。そしてその上で、机に置いたパソコンのカメラをオンにし、「もし誰かが彼女のお金を盗んだら、それがカメラに記録されるように罠を仕掛けた」のだ。

果たして、そこには、決定的瞬間とは言えないものの、ある人物の犯行が映っていたのである。

さて、ここまで聞いてまずどう感じるだろうか? 繰り返すが、学校内では「窃盗」が頻発していた。犯人が生徒なのか教師なのか分からない。しかも、観客には理解できるのだが、ノヴァクには「職員室内に犯人がいるのではないか?」と疑う理由があった。となれば、「カメラを仕掛け、犯人を炙り出そう」とするのは、それほど変な発想ではないように思う。

しかしノヴァクはその後、どちらかと言えば「非難される側」に回ってしまう。関わる者全員が彼女を非難しているわけではないが、割と多くの人から彼女は批判を受けてしまう。

もちろん、ノヴァクにも非はあったと思う。ノヴァクのすべての言動が正しかったとは思わない。しかし、ノヴァクが主に非難されるのは、「パソコンのカメラをオンにし録画していたこと」なのである。僕には正直、この感覚が上手く理解できなかった。

ノヴァクの「撮影」を知ったある教師(だと思う)は、「この動画は人格権の侵害の可能性がある」と口にした。またノヴァクは後に同僚から、「同僚を黙って撮影するなんて気持ち悪かったわ」と言われてしまう。

どうだろうか? 僕が状況を十分に説明しきれていないと思うので、これだけから判断するのは難しいだろうが、なんとなく、「撮影をしていたノヴァクが悪いのか?」と感じてしまわないだろうか?

恐らくここに、欧米と日本(あるいはアジア)の違いがある。欧米ではとにかく、「個人の権利」がかなり強く優先されているのだ。本作はドイツの映画だが、恐らく欧米の国はどこも本作と遠くない状況にあるように思う。

もちろん、大前提としてだが、「『個人の権利』が優先される社会」はとても良いと思う。というか、「良い場合もある」と言うべきだろうか。しかし同時に、「悪い場合もある」だろう。逆に、日本のような「『個人の権利』よりも『社会の調和』が優先される社会」にだって、良い点も悪い点もある。

そして本作は、「『個人の権利』が優先される社会における『悪い側面』が強調された作品」なのだと思う。

日本の場合、「窃盗の瞬間を捉えるために録画する行為」は、状況にもよるが許容されるように思う。もちろん、その動画をネットにアップしたりすればまた話は別だが、本作ではそのような状況が描かれているわけではない。ノヴァクは、単に「撮った」というだけで責められているのだ。そしてその理由が、「『個人の権利』が侵害されているから」なのである。

この記事の冒頭で、「”任意”を強調して生徒の財布をチェックした」と書いたが、この「個人の権利」は子どもにも大人と同じように認められている。個人的には、そのことはとても素晴らしいことだと思う。特にノヴァクは、他の教師が「”任意”と言いつつ強制している状況」を非難したりするなど、人一倍「生徒個人の権利」には気を配っていた。そして恐らくだが彼女の中には、「『学校』という空間の中では、『大人』よりもより一層『子ども』の権利が尊重されるべきだ」という感覚があったのだと思う。それ故に、「盗み撮りする」という行為に及んだのだろう。

このように捉えれば、彼女の振る舞いはとても正義感に溢れるものに思えるし、実際に観客の目からはそのような人物に見えるはずだ。

しかし、事態はノヴァクの想像もしなかった方向へと進んでいくことになる。

僕には、物語の進展と共に眼前に映し出される状況は、「大人が『自分の権利』ばかり主張している」から生み出されたものであるように見えた。繰り返すが、ノヴァクは「生徒の権利」を尊重しようと常に奮闘している。もちろん、自己保身などが一切ないとは言わないが、他の教師と比べても、生徒の側に立とうとしていることは明らかだ。なにせ彼女はある場面で、「生徒を謹慎処分にしよう」という話になりかけている場で、「去るべきは私だと思う」と発言するのだ。この時点で彼女はかなり追い詰められていたし、その一端は生徒によるものだったのだが、それでも彼女は「生徒の側」に立ち続けようとするのだ。

しかし、そんな彼女のスタンスは、「自分の権利ばかり主張する大人」の振る舞いによって歪められてしまうのである。

という風に、僕は割と「ノヴァクが被害者である」みたいな見方で本作を観た。しかし、恐らくそんな風に捉えない人も多いだろう。まったく逆に、「ノヴァクが加害者である」という受け取り方をする人だって全然いると思う。その感覚も分からないではない。というか、ノヴァクのどの言動を強調して捉えるかで、見え方は全然変わってくる。僕には「クーン」がヤバい奴に思えたが、「ノヴァク」をヤバい奴と捉える人もいるはずだ。どちらの方が一般的なのか、僕にはなんとも言えないけど。

しかし、誰のヤバさが描かれているにせよ、その根本に「行き過ぎた個人主義」みたいなものがあることは確かだろう。以前読んだ、日本在住期間がとても長いフランス人が書いた『理不尽な国ニッポン』という本に書かれていたが、「フランスは、個人の権利を主張しすぎて、社会が窮屈」なのだそうだ。もちろんこれは、「日本とはまるで違う」と対比的に描き出すための主張である。とにかく欧米では、「個人が権利を侵害されないこと」こそが何よりも重要であり、「そのために『社会』に支障をきたしても構わない」というスタンスが貫かれているのだと思う。

こういう社会だと知ってしまうと、ホントに、日本から出られないなと思う。僕は正直、そんな窮屈な社会では生きていたくない。

さて、本作において、状況をややこしくする要素となっているのが、ノヴァクが勤める学校の方針である。それが「ゼロ・トレランス(不寛容方式)」である。作中ではほぼ説明されないが、字面からなんとなく分かるだろう。ネットで調べてみると、「割れ窓理論」から生まれた考え方のようで、要するに、「大きくなる前に『悪』の芽を積んでおく」というやり方である。問題の大小に関わらず、それが「問題」と認識されるものであるのならば早く対処をし、それ以上「悪」を拡大させないようにするというものだ。

そしてだからこそ、教師は生徒にかなり厳しく接する。作中で生徒との関わりが描かれるのは、ほぼ校長とノヴァクぐらいだが、恐らく他の教師も同じような対応をしているのだろう。そしてそのような振る舞いによる「生徒の不満」みたいなものが、ずっと堆積していたと考えられるのである。それ故、何かきっかけがあればドーンと爆発するような状態だったのだと思う。

このようないくつかの状況が組み合わさって、ノヴァクがかなり厳しい状況に置かれてしまうことになったのである。

さて、本作は「学校」を舞台にした物語だが、全体的には、僕たちが生きる社会全体を風刺していると捉えるべきだろう。そしてそう感じられる要因もまた、「ゼロ・トレランス」である。ネットの炎上などは、まさにその最たるものだろう。「疑惑の段階で叩く」などまだ可愛いもので、状況によっては「火のないところにも煙を立てる」みたいなことを平気でやる。そういう「ゼロ・トレランス」な社会に僕たちが生きているからこそ、同じく「ゼロ・トレランス」であるこの学校で起こる出来事が、他人事には感じられないのだろうと思う。

本作の展開で興味深いのは、「カメラに映っていた人物が犯人なのか?」がほとんど追及されないことだと思う。作中で焦点が当てられるのはずっとノヴァクである。そして、「窃盗事件そのもの」ではなく、「ノヴァクの行為や、生徒・保護者との関わり方」などが映し出されていくのである。それ故に、作品全体から「異様な歪み」が放たれているようにも感じられた。

ノヴァクは、正しくはなかったかもしれない。しかし、間違ってもいないように思う。しかしそれでも、様々な事情がノヴァクを「悪」に仕立て上げていく。そして僕は、「カメラに映った人物」が犯行を行ったのだと解釈しているのだが(この辺りも人によって受け取り方が異なるだろう)、だとすればその人物の異常さがちょっと凄まじいなとも感じさせられた。

しかしまあ分からない。本作では、確定的に描かれることはほとんどないのだ。だから議論が生まれ得るし、社会全体の縮図とも捉えられるのである。

しかし、どの国でも教師というのは大変な仕事だなと感じた。これはホント、よほど情熱を持った人にしか務まらないし、そういう人間でも諦めたくなってしまうような環境ではないかと思う。僕なら、やってられんよ。

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