【映画】「日の丸~それは今なのかもしれない~」感想・レビュー・解説
いやー、メチャクチャ面白かった!観ようかどうしようかも迷ってたレベルで、観る前の想像の100倍は面白かったなぁ。ヒューマントラストシネマ渋谷で行われている「TBSドキュメンタリー映画祭2022」で上映されているもので、この文章を書いている3月19日時点では、あと2回しか上映されない。
3月22日12:00からオンラインでの上映も行われるそうだが、それも3月29日23:59までなので、観たいという方は是非お早めに。
まず、映画の内容とは直接関係ないのだが、日本の国旗「日の丸」について以前聞いて興味深かった話から始めよう。ある意味では、この映画の背景とリンクする部分もあるエピソードだと思う。
それは、「『日の丸』は1人の大学生が作った」という話だ。1964年の東京オリンピックの際、「世界中の国旗に詳しいから」という理由で、ある大学生がオリンピックの国旗担当に任命された。彼は世界中の国旗の規格などの情報を集め、「国が定める正しい国旗」をきちんと提示できるように準備を進めるのだが、一番問題だったのが「日の丸」だったという。
何故なら、日本の誰に聞いても、「日の丸」の正しい規格を知らなかったからだ。彼は日本の様々な省庁に問い合わせ、「『日の丸』の規格を教えてほしい」と聞いて回ったが、誰も知らず、それどころか、「そんな重大な問題を自分の権限では決められない」と、誰も「決定」さえしてくれなかった。
そこでその大学生はどうしたか。仕方がないので、丸の大きさや赤色の種類など、彼が決めたというのだ。
このようにして「日の丸」の規格は、1人の大学生によって定められたのである。
この話、映画の内容とはまったく関係ないが、しかし、「国旗という、国家の枠組みにとって非常に重要であるはずのものが曖昧である」という、非常に「日本らしい」エピソードだとも思う。「日本」という国名にも「ニホン」「ニッポン」という2つがあることに対しても似たような雰囲気を感じるが、日本人は「『日本』や『日本人』をとても漠然と捉えている」と受け取ることができるだろう。
だからこそ、この映画で問うような、「『日の丸』と聞くと何を思い浮かべますか?」「『日の丸』の赤は何を意味していると思いますか?」という質問から、驚くような多様性が見いだされるのだろうし、それがこの映画の面白さに繋がっているのだとも感じる。
さて、この「日の丸~それは今なのかもしれない~」という映画には、「TBS史上最大の問題作」と称されるあるドキュメンタリーが土台として存在する。そのドキュメンタリーと併せて、映画の内容を紹介していこうと思う。
1967年、「日の丸」というドキュメンタリーがTBSで放送された。日本で初めて制定された「建国記念の日」の2日前、1967年2月9日のことだ。
「日の丸~それは今なのかもしれない~」の中でも、1967年のこの白黒のドキュメンタリー映像が流れるが、確かに「最大の問題作」と言われるだけのとんでもないものだった。
マイクを持った1人の女性が、街行く人に突然「あなたにとって『日の丸』とはなんですか?」と問いかける。重要な点は、「今インタビューいいですか?」みたいな前置きは一切ない、ということだ。とにかく、何の説明もしないまま無遠慮にマイクを突きつけ、質問を繰り出す。
マイクを持った女性は、市民の返答に一切なんの反応も示さず、すぐに次の質問に移る。そんな風に10近くの質問をひたすら浴びせる様を、2人から離れた場所にいるカメラがアップで撮影する。詳しく語られなかったが、1967年の映像は、取材対象者に最後まで無許可で撮られてるんじゃないかと思う。もしそうだとすれば、コンプライアンスに厳しい現代ではまず不可能だろう。
そしてこの「日の丸」というドキュメンタリーは、他の要素を一切排し、街頭インタビューのみで構成していたという点も異色だった。それをテレビで流したのだから、「大問題」になったそうだ。放送中から苦情の電話が鳴り止まず、新聞でも報じられるに至った。
そんな「日の丸」の映像を、新人研修で目にして衝撃を受けたのが、「日の丸~それは今なのかもしれない~」の監督・佐井大紀である。彼はドラマ班のディレクター(なのかな?)なのだが、新人研修で観たこの「日の丸」の映像が忘れられず、同じことを現代でも行ったらどうなるだろうかと考え続けた。
そうして生み出されたのがこの映画である。「日の丸~それは今なのかもしれない~」の方は街頭インタビューのみという構成ではないが、様々な要素を取り込むことでドキュメンタリー映画として非常に面白いものに仕上がっていると感じた。
佐井大紀は、「今」この映画を撮ることの意味について、映画の中で説明していた。
1967年という時代は、1964年に東京オリンピックが行われ、1970年に大阪万博が控えていた。また、ベトナム戦争が起こり、世界情勢も混乱していた。一方2022年は、前年に東京オリンピックが行われ、2025年には再び大阪で万博が控えている。また、コロナにより世界は大混乱に陥り、映画撮影時には当然想定されていなかったことだが、まさにウクライナ侵攻の最中でもある。
1967年と2022年は、奇しくも類似の状況を抱えた年であり、だからこそ、1967年に物議を醸した大問題作を再び引っ張り出してくることに意味があるのではないか、と語っていた。恣意的に何らかの要素を比較すれば、どの時代も「類似している」と言えるかもしれないが、しかし「オリンピック」と「万博」に挟まれ、しかも世界を混乱させる戦争が起こっているというタイミングは、そうそう無いだろう。「時代の必然性」という意味で興味深いと感じる。
さてでは、正確なものではないが、街頭インタビューでどのような質問がなされるのか列記してみよう。佐井大紀は、意識的に1967年のものと同じ質問に揃えているので、若干の差異はあるが、両者に共通する質問事項だと思ってもらっていい。
①「日の丸」と言ったら何を思い浮かべますか?
②「日の丸」の赤は何を意味していると思いますか?
③「日の丸」をどこに掲げるのが美しいと思いますか?
④国と家族、どちらを愛していますか?
⑤外国人の友人はいますか?
⑥もし戦争になったら、その人と戦えますか?
⑦「日の丸」を振ったことがありますか? それはいつですか?
⑧「日の丸」に対して誇りを感じていますか?
⑨「君が代」に対して誇りを感じていますか?
⑩最後に「日の丸」について一言お願いします
街を歩いていて、唐突にこんなことを聞いてくる人がいたら、結構恐ろしいだろう。1967年当時であれば、そもそもマイクが高級品だっただろうから、「マイクを持ってインタビューしている人」はラジオかテレビの人だと想像できるかもしれないが、現代であれば、「悪質なYouTuber」かもしれないと思われても仕方ない。また、1967年の時はインタビューアーが女性だったが、今回は男性だという違いもある。これもまた、心理的な障壁を高めるだろう。佐井大紀は映画後の舞台挨拶で、「特に若い人には数百人単位で断られていて、使えたのは数十人」と語っていたが、まあそうだろう。僕も、その時の気分次第だが、無視してしまうかもしれない。
しかし一方で、1967年でも現在でもそうだが、答える人というのは、最初の質問からそこまで動じずに、さも当たり前のことであるかのように答えている人が多いことも印象的だった。周囲にたくさん人がいる中でインタビューを行っているというある種の安心感と、畳み掛けるように質問を繰り出してくるが故に「この人は絶対に話が通じない人だ」という印象になることも関係するだろうか、とにかく映画でインタビューが使われる人たちは、「このムチャクチャで唐突なインタビューに平然と答えている」という意味でも興味深かった。
回答は多種多様だったが、面白かった返答をいくつかピックアップしてみよう。
①「日の丸」と言ったら何を思い浮かべますか? → タクシー
②「日の丸」の赤は何を意味していると思いますか? → いちご
③「日の丸」をどこに掲げるのが美しいと思いますか? → 空とか。映えますよね。
⑥もし戦争になったら、その人と戦えますか? → 相談します。
⑩最後に「日の丸」について一言お願いします → 日の丸弁当は美味しいです。
最後の「相談します」は、「誰に?」と思ったが、インタビューアーは返答に対して反応しないルールでやっているので、「誰に?」の答えは聞けなかった。あと「日の丸」から「タクシー」を連想した人には爆笑した。
さて、「もし使うなら顔を隠してください」と言ってインタビューに応じていた人が、すべての質問に回答し終えたあと、こんなことを言っていた。
『日本人が日本人のために戦うことは大事だと思いますよ。
じゃあ、誰が日本人なのか、っていう定義が問題ですよね。』
この発言を受けて、「日本人とは何か?」「アイデンティティとは何か?」というような話に展開していく。
映画を観ながら、僕が以前から違和感を覚えていた状況を改めて頭に思い返していた。この話は、誤読される可能性が高く、誤読されると僕が言いたいこととは真逆の主張として受け取られてしまうので慎重に行こうと思う。
大坂なおみや八村塁など、外国人の親を持つスポーツ選手が大活躍し、その様がテレビなどで報じられる。その際のアナウンサーやコメンテーターの発言、あるいは恐らく視聴者の受け取り方も含めて、「日本人として誇らしい」みたいな言い方がされる。
このような場面で僕はモヤモヤする。誤解されないように先に書いておくと、そのモヤモヤは、「大坂なおみや八村塁は日本人なんかじゃない」という主張ではない。僕の主張は、「もし彼らが偉大なスポーツ選手じゃなかったら、彼らを『日本人』として扱うのだろうか?」であり、大坂なおみ・八村塁の活躍にはしゃぐ者たちに向けられている。
この映画で、「日本人とはどういう人のことを指すか?」という問いが向けられる場面があるのだが、僕はこの質問に対して、「日本社会で長く生きた人」と返す。「長く」を厳密には定義しないが、舞台挨拶で佐井大紀が使っていた「日本というラベル」という言葉を使うとすれば、「日本というラベルに包まれている人」となるだろう。そうなるぐらいには、長く日本で暮らしている人、という意味だ。
これも誤解を受けそうだが、何か厳密なルールの元に「日本人」を区分しなければならない状況、例えば今であれば「コロナ禍で制限を加えている状況下で、国外から日本に入国が許される日本人」などについては、厳密に「日本国籍を持つ者」で区切るしかないと思っている。しかし、この映画で問われているのは、そのような意味ではない。「あなたはどういう人を『日本人』だと感じますか?」という質問なのだ。そしてそれに対して僕は、「日本社会で長く生きた人」と答える。現在進行形で日本にいる必要はない。長く日本社会で生活した経験があれば、今どの国にいてもいいと思っている。
逆に言えば、日本人の両親を持ち、日本で生まれ育っていても、日本以外の地での暮らしの方が圧倒的に長ければ、僕は「日本人ではない」と感じるかもしれない。
これが僕なりの「日本人」の捉え方だ。そして、そういう意味でも、大坂なおみや八村塁を「日本人」だと僕は考える。
しかし、世の中のすべての人が僕と同じように判断するとは思えない。中には、「日本国籍を持っていて、日本に長く住んでいても、日本人っぽい見た目じゃないと日本人には感じられない」という人もいるだろう。今の時代、なかなかそんな発言を表立ってする人がいるとは思えないが、内心そう感じている人はいるはずだ。しかし、そういう人でも、大坂なおみや八村塁の活躍に対しては、「日本人として誇らしい」と感じているのではないか、と僕は邪推している。
そしてその状況に、僕は大いに違和感を覚えるのである。
さて、映画の話に戻ろう。「日の丸~それは今なのかもしれない~」には、アイデンティティの話に絡めてなんと「ウルトラセブン」の話が出てくる。「日の丸」が放送されたのと同じ1967年に放送された第42話「ノンマルトの使者」についてだ。この脚本は、沖縄出身の金城哲夫が手掛けたそうで、「沖縄と日本の関係を反映した」と言われているらしい。
「ウルトラセブン」には、「ノンマルト」と呼ばれる存在がいる。ウルトラセブンの故郷であるM78星雲では、それは「地球人(人間)」のことだった。つまりウルトラセブンにとって「ノンマルト=地球人」なのだ。しかし一方、「ノンマルトの使者」に登場するある少年は、ノンマルトを「本当の地球人」と言う。「地球人」よりも前に地球に住んでいたのだが、「地球人」に海へと追いやられてしまった。人間は自分たちを地球人だと思っているが、本当は侵略者だ、と少年は訴える。
なぜこんな話が「日の丸~それは今なのかもしれない~」に出てくるのか。それは、アイヌにルーツを持つ女性にもインタビューをしているからだ。日本の先住民であるアイヌ民族は、戸籍上は「日本人」とされたが、アイヌ独自の文化は禁じられ、日本語の使用も矯正された。今僕たちは自分を「日本人」だと思っているが、本当は「侵略者」なのだ。まさに「ノンマルトの使者」の話と重なるだろう。
アイヌにルーツを持つ女性は、「子どもは肌の色や言語が違っても関係なく遊んでいる」「『アイヌ』というのは『人間』という意味であり、他の人と区別する言葉ではない」「マイノリティ、マジョリティという言葉を大人になるにつれ意識せざるを得なくなる」などと語り、「日本人」や「外国人」という言葉をどう捉えるのかは難しいと率直に語っていた。
さて、映画の後半では、1967年に「日の丸」を作った人物に焦点が当てられる。ディレクターはTBSの萩元晴彦という人物だが、構成として関わっていたのがなんとあの寺山修司だという。萩元は早稲田大学時代の寺山修司の先輩だそうで、2人で「街頭インタビューのみのドキュメンタリーを作る」といって制作したものだそうだ。
「日の丸」を放送する3ヶ月前、街頭インタビューのみの「あなたは……」というドキュメンタリーを放送している。「日の丸」同様、街行く人に「あなたは幸福ですか?」「あなたが今ほしいものはなんですか?」「あなたが総理大臣になったら何をしますか?」と畳み掛け、最後に「あなたは誰ですか?」と聞くものである。この「あなたへ……」の評判がどうだったのか、映画の中では語られなかったが、悪くはなかったから「日の丸」へと繋がったのだろう。
映画には、寺山修司が作った劇団「天井桟敷」のメンバーで、後にTBSに入社した安藤紘平(映画作家)も登場する。彼は、舞台挨拶にも登壇していた。舞台挨拶では、当時の思い出を語っていた。TBSの3階にあった喫茶店でよく奢ってもらっていたから、TBSは良い会社だと思い、寺山修司に「TBSを受けようと思うんですけど」と言うと、「1人ぐらいスパイがいてもいいだろう」と言うので入社した。しかしその直後、「日の丸」が放送され、TBSは大騒ぎになった。まだ見習いだったが、重役に呼ばれ、「天井桟敷かTBSかどちらか選びなさい」と言われた、という。「日の丸」をきっかけに、TBSにとって寺山修司は問題児扱いされてしまったそうだ。
そんな安藤紘平が、「日の丸」を通じて寺山修司がやりたかったことを、「『情念の反動化』に一石を投じること」と表現していた。この説明のために、寺山修司が「日の丸」について書いた文章の記述をざっくり説明しよう。
<いきなりマイクを突きつけては質問をする。「あなたは何をしている時が幸せですか?」という問いに対しては、大部分の人が「昼寝」や「テレビを観ること」などと答える。
それに対し、何か偽証と言った想いを抱くだろう。どこか間違っている、と。
では、それに代わる答えは何かと問われれば、聴取者もまた口をつぐんでしまう。
日常的な小生活を幸福と捉えるためには、想像力の助けがいるのだ。>
そして、萩元と寺山は、人々の「想像力」が硬直していると考えていた。そしてそれを「日の丸」によって突き動かそうとしたのだ。正確に理解できたか自信はないが、そのようなことが語られていた。
そして恐らくこの点に関連しているのだろう、舞台挨拶で安藤紘平が語っていた「日の丸」と「日の丸~それは今なのかもしれない~」の違いの話が興味深かった。
安藤紘平は、萩元晴彦と寺山修司が考えていたことは若干異なるはずだとし、主に「寺山修司が何を考えていたのか」について語っていた。寺山修司という人は、「死ぬまで詩人でありたかった人」であり、とにかく言葉にこだわった。しかし、だからこそ「言葉から出なければならない」とも感じていたという。そこで、映画や演劇、競馬評論家など様々なことを行い、「詩的なものをバラ撒きたかった」のだろう指摘する。寺山修司はよく「ヒトラーのナチ党大会の映像」に言及していたそうだが、それも「ヒトラーは政治家ではなく詩人だ」という感覚からくるものだったそうだ。詩とは言葉だけではなく、行為全体として詩なのだということである。
映画の中では安藤紘平が、
【言葉と言葉が非常に離れていることによる虚構性を大事にしていた】
という言葉で寺山修司を語っていたが、これもまた、「言葉だけでは詩ではない」ということを表現するものだろう。
また、寺山修司は演劇などで「国家」を題材にすることも多かったという。映画に出てくる、「1メートル四方1時間国家」という見事なフレーズで表現した「市街劇 人力飛行機ソロモン」という演劇の説明ももの凄く興味深かったのだが、ここでは割愛しよう。そして寺山修司は、「国家」を「閉じ込めるもの」として捉えていた。『書を捨てよ町へ出よう』などのタイトルからも明らかなように、寺山修司にはずっと「閉じ込められているところからいかに出るか」をテーマに掲げており、
【国家という閉じ込められた概念から、政治的ではなく、詩的な方法で出ていく】
ということの重要性を感じていたそうだ。
そして、まさにそんな「解放」を、テレビを通じて実現しようとしたのが「日の丸」なのであり、安藤紘平はこれを「虚構としての詩的なアジテーション」と呼んでいた。まさにこれこそが、寺山修司がやろうとしていたことなのだ、と。
だから、寺山修司にとっては「質問内容」や「回答」は重要ではなかった、と安藤紘平は言っていた。唐突に質問するという行為、あるいは答えに躊躇する間、それらすべてを「テレビ」という枠組みの中で行うことで、「虚構としての詩的なアジテーション」を実現することこそ、寺山修司の目的だったのだ。
さて、安藤紘平は舞台挨拶の中で、1967年のインタビューと2022年の佐井大紀によるインタビューの差異について、
【佐井君は、相手の返答に対して頷いていた】
と言っていた。そして「だからとても良かった」というのだ。この指摘の説明のために、少し脱線しよう。
映画の中で、萩元晴彦が「インタビューアーにアナウンサーを使わなかった理由」を語っていた。当初はアナウンサーを起用するつもりで試したが、上手く行かなかったという。それは、「情緒的なコミュニケーション」を取ってしまうからだ。それはアナウンサーにとっての「技術」とも言えるのだが、それが今回のインタビューでは邪魔になる。だから実際には素人を起用し、相手の返答に一切反応せず、無機質に質問を繰り返すことに専念させたそうだ。萩元晴彦はインタビューアーを「人格」ではなく「単なる記録用紙」と考えていた、という風に語っていた。
そしてこのやり方はつまり、「問われた人間の反応まるごと捉えること」にこそ重心が存在したことを意味する。「質問内容」や「回答」ではなく、「視覚情報」にこそ重きが置かれていたというわけだ。ここには、安藤紘平が指摘していた、「『日の丸』には『テレビとは何か?』という問いかけも含まれている」という点も大きい。1967年は、まだテレビが登場して間もない時代。「テレビ」というものの役割・存在感が明確なものではなかったということだろう。萩元晴彦自身ラジオ出身だそうで、「日の丸」というドキュメンタリーには「テレビには何が出来るのか?」という視点が多分に含まれている。だからこそ、「視覚情報」の方に寄りかかった作りになっているというわけだ。
しかし安藤紘平は、「日の丸~それは今なのかもしれない~」のインタビューにおいて佐井大紀が「返答に対して頷きを返す」ことによって、「質問内容の方に重きが置かれていた」と指摘する。そしてだからこそ、結果としてウクライナ侵攻という背景にも呼応するような作品に仕上がったのだ、と。
安藤紘平は映画出演のオファーを受けた際、「テレビがこれをやるのはもう古いのではないかと感じていた」と言っていた。これはつまり、萩元晴彦・寺山修司が「視覚情報」を重視した作りをしていたことを念頭に置き、同じことをやる意味があるのだろうかと感じていたのだろうと思う。
しかし結果として、「頷き」によって「質問内容」や「回答」に焦点が当たることになり、良い作品に仕上がったと指摘していた。
これに対し佐井大紀は、「頷きは無自覚だった」と語る。彼自身、映画製作と同時並行で、1967年の「日の丸」の演出意図を少しずつ理解していったそうで、だからこそ、インタビュー敢行時には、萩元晴彦・寺山修司の狙いを把握できていなかったと言っていた。そして安藤紘平曰く、結果としてそのことが作品にとっては良かったのだ、という話だった。
この「頷き」の話は、僕自身では捉えきれていないものであり、なかなか興味深いと感じた。
また舞台挨拶では、インタビューを自ら行ってみた佐井大紀の実感として、次のようなことが語られた。
1967年の「日の丸」を観た佐井大紀は、寺山修司の本などの印象も併せ、「挑発」や「悪意」をそこに感じていたそうだ。不躾に質問を投げかけるという手法は、そのような「挑発」「悪意」の現れなのだろう、と。しかし実際に同じ形式でインタビューをしてみたことで、「彼らはもっと切実な想いを持ってこのインタビューを企画したのだ」と感じられるようになったのだという。性悪説ではなく、性善説で社会を動かしたかったと思っていたはずで、だからこそ、正しく受け取られず大バッシングを受けることになってしまったことを残念に感じていたのではないか、と言っていた。これもまた、あの特異なインタビューを実際に行ってみなければ実感できない話で興味深かった。
「日の丸」というテーマは、多分に政治的な匂いを感じさせるし、なかなか真正面から向き合いたくないと感じる人も多いだろう。しかし舞台挨拶で佐井大紀は、「自分を包んでいるラベルを疑うきっかけにしてほしい」と語っていた。日本という島国で、同じ日本人の集団に囲まれているが故に、普段まったく意識せずにいる様々な「覆い」みたいなものを、僕らはまとっているはずだ。それを、「日の丸」についての質問について思い巡らせ、そこから派生する様々な疑問に向き合うことで、意識する機会になると僕も感じた。
メチャクチャ面白い映画だった。
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